安国寺 恵瓊
あんこくじ えけい
1539?-1600
名称:竹若丸・辰王丸、瑤甫(ようほ)、一任斎、正慶(しょうけい)
■安芸国守護であった武田信重の遺児。
安芸武田氏が滅亡すると恵瓊は、安国
寺に逃れ、その寺の小僧となる。
安国寺は室町時代初期に足利尊氏が
天下太平を祈願して全国に建立した寺
と伝えられる。
恵瓊は後に高僧・竺雲恵心の弟子とな
り、仏法の修行に励んだ。
由緒ある武士の血筋を受け継いでい
た恵瓊ではあったがこのまま仏教の道
を歩むかに見えた。
しかし、師匠の恵心は毛利家の外交僧
として活躍するようになり、自然と弟子
の恵瓊もその側近として外交の任にあ
たるようになった。
■毛利家外交僧として活躍することとなっ
た恵瓊は山陽方面の司令官・小早川
隆景に属した。
■恵瓊が備前の謀将・宇喜多直家に一度
、捕らえられた時、毛利家は捕虜となっ
ている宇喜多家家臣と人質交換をする
などして恵瓊の身を確保した。
これは、恵瓊が毛利家の外交戦略上、
重要な人物であったことを示している。
■1573年、足利義昭が織田信長に反乱を
起こすと義昭から毛利氏に加勢を求め
る書状などが届けられるようになった
が、義昭を助ける間もなく、信長により
鎮圧された。
義昭は信長に謝したが二度に及ぶ反
乱に腹を据えかねていた信長は思い
切って義昭を京より追放することに
した。
当初は義昭斬首をもって罪を償わせよ
うとしたが将軍を斬首することは、色々
と面倒であるとの諸将の意見に従い、
助命した。
義昭の要請を受けて、毛利氏が義昭
の身を引き取ることが決まったが、この
話し合いの席に毛利氏代表として出席
したのが外交僧・安国寺恵瓊であっ
た。
織田方の外交官は、羽柴秀吉が勤め
た。恵瓊は秀吉に対面して、その利発
にして天下人の気を発する秀吉を高く
評価し、毛利本国宛ての書状の中でこ
う評している。
”信長の世は長くは続かない。高転び
に転ぶであろう。しかし、その臣、羽柴
筑前なるものは、さりとてはのものに
候”と。
恵瓊は信長の傲慢さが身を滅ぼすと
直感する一方で、その下で懸命に働く
秀吉の頭に日の光りが差すのをひしひ
しと感じたい違いない。
この点において、恵瓊には外交官とし
て必須な先見の明と正しい直感を兼ね
備えていたことを証明している。
■1582年、2万の織田軍を率いた羽柴秀
吉が高松城を包囲すると、これに対抗
すべく、毛利家は吉川元春、小早川隆
景が率いる主力部隊を投入。
山陽方面の要衝・高松城を攻略される
ことを戦略上不利になると判断したた
め、主力を用いて応戦することとなった
のである。
もちろん、恵瓊も小早川隊の属将の一
人として参軍した。
高松城を挟んで両軍はにらみ合いのこ
う着状態となった。
毛利陣営では、これ以上の援軍は望め
ないため、もし織田軍本隊が援軍をよ
こしてきた場合、雌雄を決した戦いで敗
北するのではという危惧が出され、何
とか講和できないかと議論されて
いた。
そのような中、突如として、秀吉側から
講和を結びたいと申し出てきたため、
毛利軍は恵瓊を用いて講和交渉に当
たらせた。
交渉の内容では、秀吉側は高松城の
城兵の助命と領土分譲を要求しない代
わりに、高松城主・清水宗治にこの合
戦の落とし前をつけさせることを条件と
した。
旗色の悪い毛利側にとっては願っても
ない講和条件であったが、勇将として
名高い清水宗治を失うことにためらい
を見せた。
そこで、恵瓊は単身高松城に赴き、宗
治を説得。
毛利家のために身命を落すべしと説い
て、義を重んじた宗治もこれに納得し、
早急に自刃して果てた。
こうして、恵瓊は歴史的に重要な毛利
、羽柴の間に講和を成立させ、毛利氏
は安泰を確保し、秀吉は天下の覇者と
して台頭していく足がかりを掴んだの
であった。
■この後、秀吉が天下人として覇者の道
をひた走る中、毛利氏と羽柴氏の外交
交渉に当たったのが恵瓊であった。
こうして、恵瓊は秀吉と頻繁に会合す
るようになり、毛利氏の家臣でありなが
ら、徐々に秀吉の側近としても活躍し
ていくようになる。
秀吉が天下人として成功すると巨大な
豊臣政権の一角を占めるようになる毛
利氏の代表として恵瓊は国政に参加。
外交官として豊臣家に貢献することも
数多くあり、恵瓊は天下平定に一役か
った形となる。
■秀吉の栄華とともに恵瓊も人生の絶頂
期を迎えたが秀吉が没した頃から、自
慢の先見の明を失うこととなる。
徳川家康に対して恵瓊は自ら進んで対
抗勢力の一角を担い、石田三成らとと
もに家康打倒の旗を挙げることと
成る。
毛利宗家主君・毛利輝元を西軍の総
大将に据えることに成功するも、毛利
一族の長老・吉川広家を説得すること
ができなかったことが、恵瓊の誤算の
始まりであった。
関ケ原合戦で吉川広家の東軍内応に
より、結局西軍は敗退。毛利家をたば
かった責任を負わされ、恵瓊は弁明の
余地も与えられず、処刑された。