あざい ひさまさ
1522?-1573
享年52?歳。


名称:新九郎、下野守
居城:近江小谷城


■近江守護・京極家の被官から一躍して
  、江北(ごうほく)の雄となった浅井亮
  政の子として誕生す。

■1542年、江北の名将と謳われた父・亮
  政が没するとその家督を継いだ久政は
  、武をあまり好まず、文弱であった。

  能や狩猟に明け暮れる優雅な日々を
  送り、戦国乱世の只中にあって、軍略
  を尽くさなかった。

■そのため、京極氏の盛り返しや南近江
  の六角氏が勢力を拡大してくると、久
  政はこれに拮抗することができず。
  ついには、同盟を結んで六角氏の傘下
  に収まってしまう。

■従属的な同盟関係を六角氏と結んだ久
  政は、政略結婚によって、六角氏に
  取り込まれる形となった。

  これに反発したのが久政よりも優秀な
  久政の息子・長政であった。
  長政は当初六角家重臣・平井定武の
  娘を正室に迎え、六角義賢から賢の偏
  諱も受けて、賢政と名乗り、完全に六
  角氏に取り込まれる形となっていた。

  しかし、誉れ高い武勇で鳴らした家名
  を失墜させた久政の政策には、我慢が
  ならなず、賢政はついに家中の変革を
  成す。

  賢政はまず浅井家の有力家臣の賛同
  を得て、久政を隠居させると電光石火
  のすばやさで、六角氏側の妻と離縁。

  妻を六角氏へ送り返す一方で、六角義
  賢から受けた偏諱・賢の一字を捨て、
  浅井長政と改称した。

  こうして、完全に六角氏傘下から脱し、
  独立を宣言するとともに六角氏に拮抗
  するため、長政は新たな外交政策を
  執る。

■まず、昔から友好深く、同盟を結んでい
  た越前の朝倉氏と新たな友好を結び、
  浅井氏所領である江北の地より北方か
  らの侵攻を受ける脅威をなくした。

  ついで、尾張・美濃と勢力を拡大させ
  ていた新興勢力の織田信長に着目し、
  織田信長とは政略結婚で結びつきを強
  めた。

  こうして、長政は北近江周辺での外敵
  脅威を減らすとに成功する。

  久政は弱冠二十歳に満たない青年武
  将が巧みに外交を成し、六角氏の侵攻
  戦をも退けて、新たな境地を浅井家に
  もたらしたことに大いに満足していた。

■しかし、事はうまくは続かない。
  織田信長が思った以上に勢力を拡大さ
  せて、ついには足利義昭を奉じて上洛
  戦を展開。
  宿敵・六角氏を打ち破った浅井家は、
  西近江をも屈服させて、近江の実質的
  な支配権を握った。

  だが、それ以上に織田信長は今回の
  上洛戦で巨利を得ていた。

  織田信長のすぐれた統帥力と統治力
  により、瞬く間に畿内は平定されて
  行った。
  そのために近江の隣国はみな織田の
  領土となってしまい、急成長した浅井
  氏とって、もうこれ以上の領土は望め
  なくなってしまったのである。

  長政のすぐれた能力を発揮する場を失
  った形となったことで、反織田構想が
  浮上してくる。

  1570年、織田信長は朝倉討伐を敢行。
  これに先立つ織田・浅井氏との政略結
  婚の同盟を結んだ際、織田氏は浅井
  氏の盟友である朝倉氏と不戦するとい
  う浅井氏の要望を承諾していたにもか
  かわらず、その約定を破って、討伐戦
  を敢行した。

  困惑した若き当主・長政に対して、久
  政は冷静に状況を判断。
  織田氏に従っていては、領土拡張が望
  めない。浅井氏は織田氏に包囲された
  状態にある。

  もし、織田信長が心変わりをして、朝倉
  氏を滅した後、矛先を浅井氏に向けな
  い保証はなにもない。
  また、有能無比の軍才を見せる若き息
  子・長政をもってすれば、天下人となる
  ことも夢ではない。

  朝倉氏と手を結んで、連合して織田に
  拮抗すれば、畿内の領土は取り放題と
  なれる。
  諸々の条件は、織田家裏切りの方向で
  吉とでてくるのである。
  かつて久政の父・亮政は北近江の雄と
  して畿内津々浦々にまでその武名をと
  どろかせていた。

  京極家のいち被官に過ぎなかった浅井
  氏は戦国期に入って、大いに力をつ
  けた。

  かつては、名将と謳われる人物も排出
  し、いま久政の眼前にも名将と謳われ
  るにふさわしい若武者が控えている。

  また、その脇では、父・亮政譲りの武勇
  に秀でた武者が幾千と控えている。
  どうしてこの勢力を持ってして、天下を
  望まないでいられようか?
  京は近江とは目と鼻の先にある。

  今は躍進した新興勢力の織田氏も一
  昔前までは、我ら浅井氏となんら変わ
  るところがない被官者であった。
  それが主家筋の斯波氏の勢力を飛び
  越して、下被官から成り上がったのだ。

  浅井氏もひとたび好機を得れば、天下
  に覇を唱えられる位置にあるのだ。
  久政の文弱ならではの老獪な計算が
  長政の織田家裏切りを後押しする結果
  となった。

  朝倉氏と連携して、越前深く侵攻して
  いた織田軍を挟撃すれば、一挙に殲滅
  することも可能と判断。
  好機を逃さずに浅井軍は近江を出陣。
  織田軍挟撃作戦は効を奏するかに見
  えた。
  だが、織田信長とてダテに畿内大半
  を平定していない。
  油断なく織田氏の後方に位置する浅井
  氏の動きを見張らせていた。

  浅井氏動くの知らせに挟撃の窮地を悟
  った信長は急きょ手勢を率いて虎口を
  脱出。
  それを皮切りに織田軍は続々と京都へ
  と撤退。
  殿を務めた木下秀吉は、巧みな妙味を
  見せて、敵軍の追撃部隊を退けた。

  こうして、織田軍殲滅の好機を失した
  浅井氏は、その後、織田軍と熾烈な戦
  いを繰り広げる事となる。

■1570年、姉川の地にて浅井・朝倉連合
  軍VS織田・徳川連合軍の一大決戦が
  展開された。

  この戦いで浅井軍は大量の犠牲者を
  出しながら、4倍近くも兵力差がある織
  田軍相手に勇戦。
  合戦の前半戦は、織田軍の分厚い守り
  の陣形を次々と突き崩し、あわや織田
  信長本陣間近まで迫った。

  しかし、徳川軍の機転を利かせた別働
  部隊の強襲によって、朝倉軍の陣形が
  崩れ、ついですかさず織田軍は温存し
  ていた後詰部隊を戦場に投入。

  浅井軍は疲労困憊した状態での新手
  とあって、ついに陣形は崩壊した。

  朝倉軍も足並み崩れて敗走に転じ、一
  大決戦は雌雄を決した。
  この戦いで織田・徳川氏の栄華が約束
  され、逆に浅井・朝倉氏には没落という
  道が待っていた。

■姉川合戦後も浅井氏は堅牢な山城を頼
  みとして、篭城戦を展開し、織田氏に
  拮抗し続けた。
  久政は小谷城本拠を長政に任せ、自
  身は小谷城の支城である京極丸に
  入った。

  だが、織田軍の調略によって、浅井氏
  重臣が続々と織田方へと寝返り、つい
  には久政と長政とを結ぶ連絡線が寸
  断され、篭城戦の連携が取れなく
  なる。
  こうして、浅井氏のすべてを賭けた織
  田氏との総力戦は、大敗北という形で
  終結し、久政は落城の憂き目を見て、
  自刃して果てた。

  だが、浅井氏の血脈はその後も延々と
  歴史の表舞台で躍動し続けることと
  なる。
  久政の孫娘たちが続々と栄華を誇った
  武家に嫁ぎ、浅井氏の血筋は、天下に
  比類なき栄華の血脈となったので
  ある。

  久政・長政の天下取りの野望はこうし
  て違う形で成就する結果となった。