あざい ながまさ
1545-1573
享年29歳。


名称:新九郎、賢政(かたまさ)、備前守
居城:近江小谷城


■北近江の雄・浅井久政の嫡子として誕
  生す。

■長政の幼少期には、かつての北近江の
  雄として鳴らした浅井氏の武威は大い
  に衰えており、南近江を手中としてい
  た六角氏に威圧されていた。

  六角氏や京極氏が攻勢に出ると、長政
  の父・久政はこれに屈服し、従属的な
  同盟を結び、浅井氏は六角氏の傘下
  武将に成り果ててしまう。

■落ち目となっていた浅井氏にとって、唯
  一の希望の星となっていたのが、久政
  の嫡男・長政であった。

  長政の才覚は、かつて畿内中に名将と
  してその名を知られた長政の祖父・亮
  政に匹敵するとまで賞されていた。
  浅井家中でも長政に期待する声は大き
  かった。

  六角氏も優秀な浅井氏の嫡子に着目
  し、六角氏当主の六角義賢は、長政が
  元服すると自分の名の一字である「賢
  」与え、長政は浅井賢政と称している。

  また、六角氏の重臣・平井定武の娘を
  賢政に嫁がせるという懐柔策を行い、
  浅井氏の取り込みに余念がない。

■しかし、賢政自身はこれに反発し、浅井
  氏の重臣たちから支持を得ると父・久
  政を隠居させ、自ら浅井家の若き当主
  となり、反六角氏の姿勢を取った。

  この手際のよい革命を賢政は弱冠
  16歳で成し遂げている。
  ついで、賢政は、六角氏に縁の深い妻
  と離縁し、実家へと送り返し、自らの名
  も、六角義賢の偏諱である賢を捨て、
  長政と改名している。

■この浅井氏の劇的な反六角氏姿勢を見
  た六角義賢は憤激し、北近江侵攻を開
  始する。
  しかし、長政はこれにひるむことなく着
  々と迎撃体勢を整え、祖父・亮政の遺
  臣である近江三人衆を駆使して、六角
  氏撃退に成功。

  古くから同盟関係にあった越前の朝倉
  氏と再び絆を深めた長政は、北近江支
  配の強化を目指し、次第に六角氏をし
  のぐ勢力を見せた。

■美濃攻略に燃える織田信長は、急成長
  を遂げた浅井長政に接近。
  長政との思惑とも合致し、政略結婚が
  成立することとなった。

  1567年、信長の妹・お市の方を嫁とし
  た長政は織田信長にとって、徳川家康
  と並ぶ頼もしい盟友となったのである。

■1568年、義兄・織田信長が足利義昭を
  奉じて、上洛戦を展開すると長政はこ
  れに同道。
  信長と共に宿敵・六角氏を観音寺城に
  て撃滅させ、六角義賢・義治父子を伊
  賀に敗走せしめた。

  ついで、西近江に展開する朽木元綱を
  攻め立て、これを屈服させた長政は、
  いよいよもって、近江の実質的支配者
  としての地位を獲得できる段階とな
  った。

■1570年、織田信長は上洛要請を出した
  越前・朝倉氏が上洛要請を拒否し、反
  抗する姿勢を見せたことから、討伐戦
  を展開するに至る。

  これに対して、苦境に陥ったのが長政
  で、同盟者・朝倉氏を見捨てるべきか
  否かで苦慮していた。
  考え抜いた挙句、長政は急成長し続け
  る覇王・信長に脅威を感じ、これ以上、
  信長の傘下に収まることは自らの器に
  合わずと判断。
  長政は、あえてこの強敵との対立の道
  を選ぶ。

■越前攻略に快進撃を続ける織田軍に対
  して、長政は密かに北近江を出陣。
  軍兵を率いて織田軍を朝倉軍と共に挟
  撃し、一挙に殲滅する作戦を立てる。

  この異変に気づいた織田軍では、この
  苦境をどう脱すべきか議論が開か
  れた。
  信長ははじめ、越前に踏みとどまり、迎
  撃する覚悟を示していたが、諸将の進
  めを受け、わずかな守兵を引き連れて
  、一目散に退却を敢行。

  織田軍諸部隊も続々と撤退を開始し、
  殿は、木下秀吉が務めた。
  ”逃げ上手の秀吉軍”と酷評されてい
  た弱腰の秀吉軍であったが、このとき
  ばかりは、この評価を改新させるほど
  の武勇を現し、見事に殿の大役を果た
  し、自らも無事に虎口から脱するので
  あった。

  逆に浅井・朝倉連合軍からすれば、大
  きな誤算となった。挟撃という格好の攻
  撃態勢にありながら、なんら大打撃を
  織田軍に与えることができなかったこと
  は、最大の不覚であった。

■1570年、京都に戻った信長は、自分を
  裏切った長政に憤慨し、浅井氏討滅戦
  を展開。
  長政は、越前・朝倉氏に援軍を求め、
  朝倉軍は朝倉景健を総大将とする1万
  5000の大軍を派遣して要請に応じた。

  ここに近江姉川にて浅井・朝倉連合軍
  2万1千余りと織田・徳川連合軍2万6千
  が激突した。
  この姉川合戦で、浅井軍は総勢6千に
  て、兵数が勝る織田軍と戦い、優勢に
  戦闘を展開した。

  浅井軍の勇戦により、織田軍は十二段
  構えの陣形が崩され、残りわずか一段
  構えになるなど窮地に立たされた。

  そんな中、6千余りを率いる徳川軍は、
  大軍の朝倉軍に対して善戦し、ついに
  は徳川軍の榊原康政が機転を利かせ
  て、手勢を率いて朝倉軍の横合いを
  強襲。

  この猛襲に遭遇した朝倉軍はたまらず
  に陣形を崩す。
  これを見た織田軍は後詰部隊を前線
  に投入させ、形勢は一挙に織田・徳川
  連合軍の優勢へと変貌した。

  散々に突撃を繰り返していた浅井軍も
  ついに大軍の前に力尽き、朝倉軍の敗
  走を機に諸部隊は続々と戦場離脱
  した。

  姉川合戦を境として、浅井・朝倉連合
  軍の勢いは陰りを見せ、織田軍の一方
  的な攻勢状態となる。

■長政は居城の小谷城を拠点として、徹
  底篭城戦を展開。難攻不落の天険の
  城・小谷城に織田軍はてこずることと
  なる。

  徹底抗戦の姿勢を貫く長政ではあった
  が、窮地を挽回する余地はどこにも見
  出せなかった。
  すでに姉川合戦にて、再起不能なほど
  に大打撃を受けていた浅井家は、頼み
  とする盟友の朝倉氏からの援軍も望む
  事ができず、苦境に立つ。

  難攻不落の小谷城を基点として支城と
  の連携行動によって、織田軍翻弄作戦
  も効を奏さず、ついには支城を次々と
  攻略されてしまう。

  浅井家滅亡を決定付けたのは、浅井
  氏重臣の離反が相次いだことによる。
  磯野員昌、阿閉貞征ら浅井氏重臣が
  織田方へと寝返り、浅井氏の士気は大
  いに急落した。

■1573年、長政は信長からの最後の降伏
  勧告を蹴り、重臣・赤尾清綱の屋敷内
  にて自刃して果てた。
  享年29歳。

  小谷城落城に際して、正室の小谷の方
  とその子女たちが城を出て、信長の下
  へ引き渡された。

  城を出た子女たちはその後も戦国史に
  名を残す重要な存在となる。

  長女・茶々は、後に豊臣秀吉の側室・
  淀殿となり、豊臣秀頼を生む。

  次女・お初は、後に京極高次の正室と
  なり、大坂の役では、徳川方と豊臣方
  の講和の使者として、活躍する。

  三女・お江は、後に徳川秀忠の正室と
  なり、三代将軍・徳川家光を生む。

  そして、長政の長男・満福丸は武門の
  倣いとして、悲運にも斬首と相成った。