さいとう よしたつ
1527-1561
名称:新九郎、玄龍
居城:美濃国稲葉山城
■斎藤道三の嫡男。
一説には、美濃国守護の土岐頼芸の庶子と
言われている。義龍の母が、頼芸の愛妾・
深芳野であったため、頼芸の子と噂された。
義龍は容貌魁偉で巨漢であったが、道三は
美男子であったことから容姿の違いが噂を
招いたとも、道三が美濃守護の統治を
正当化しようとしたからだとも見られている。
■道三は明智光継の娘・小見の方を正室に迎え、
濃姫、孫四郎義重、喜平次らをもうけ、
義龍との間は次第に疎遠となっていった。
道三は1548年に義龍に家督を譲ると、
本拠の稲葉山城を出て、鷺山城へと入った。
その後、道三は、義龍を廃して、次男の
孫四郎義重に家督を譲ろうと画策する。
道三のその動きを察知した義龍は、1555年に
先手を打って、孫四郎と喜平次を謀殺した。
道三と義龍は決定的に対立するようになり、
長良川の戦いで激突。
劣勢の道三は激戦の末に討死した。道三を
討った義龍は、剃髪して玄龍と号して、
美濃三人衆を用いて、美濃統治に乗り出す。
■尾張の織田信長と数度の戦いを起こすも、
すべて侵略を斥けるなど、義龍の武威も
かなり振るっている。
また、幕府権勢に野心を燃やし、1558年には
治部大輔に任じられ、1559年には幕府相伴衆に
列せられている。
着々と勢力拡大を行った義龍だったが、
道三存命中から病魔にかかり、1561年34歳の
若さで病死した。
義龍が死んだ同日に妻子3人も怪死したと伝えられている。