さいとう どうさん
1494-1556
享年63歳。
名称:蜂丸、法蓮坊、松波庄九郎、
西村勘九郎、長井新九郎、
斎藤利政、斎藤秀龍、
左近大夫、山城守
居城:美濃国稲葉山城→美濃国鷺山城
■下克上を生き、国盗り伝説の代表格
として、有名な武将。
道三の父は代々を院の北面武士を
務めた松波家の当主・松波基宗であった。
道三はその基宗の庶子で、11歳の時に
京都妙覚寺の住持・日善に弟子入りし、
名を法蓮坊と称した。
この寺修行の時期に道三は、美濃の
守護・土岐氏の執権・長井利隆の弟で
ある南陽坊と親しくなる。
その縁で道三は、美濃へ入り、還俗して
松波家の家督を継ぎ、松波庄九郎と称した。
還俗後、道三は奈良屋又兵衛という商人に
婿入りし、家名を山崎屋と改め、灯油売り
の行商をはじめる。
美濃常在寺の住持となっていた親友の
南陽坊の引き立てで、美濃国内で油屋を
手広く商い、その間に美濃守護土岐氏の
家老・長井長弘と知り合う。
■道三は長井長弘に通じ、美濃守護・
土岐政房の次男・土岐頼芸に近づく。
遊興などの世話をすることで頼芸より
寵愛を受けるようになる。
商人として成功を収めていた道三にとって、
また新たな好機が訪れる。長井家の家老・
西村正元が没し、家督を継ぐ者がなかった
ことから、頼芸の一案で、道三は西村家の
養子となり、西村勘九郎と称し、
土岐氏の家臣となる。
■西村家を継いだ道三は、土岐盛頼が美濃
守護職を継いだことを受け、頼芸に謀反を
起こすよう勧め、ついにこれを成功させた。
盛頼を越前へ追放すると、道三は頼芸を
美濃守護職に就け、自らも国内での権勢をより強くした。
■次に道三は、自分の上司である長井長弘を
疎んじるようになり、1530年、頼芸への
謀反を企てているとの嫌疑を長井にかけ、これを討伐。
道三は長井氏の勢力を取り込み、自らの
名を長井新九郎と称して、ついに美濃国内の
実力者にのし上がった。
■美濃守護代である斎藤利良が没すると、
道三は頼芸の勧めを受けて、斎藤氏の家名を
受け継ぎ、斎藤利政へと改名。後に秀龍と称す。
1542年5月2日、道三は大桑城にいた主君・
土岐頼芸を襲撃し、これを尾張国へ追放。
道三はついに美濃一国の主にのし上がった。
■その後、尾張の織田信秀は土岐頼芸を保護し、
美濃奪還を名目に美濃へと侵攻。道三と
幾度となく交戦した。
1549年、道三は信秀と和解し、信秀の嫡男・
信長と道三の娘・濃姫をめあわせ、
政略結婚によって、和平を結んだ。
この和平により、土岐頼芸も大桑城へ返り咲く
ことに決まったが、1552年、道三は再び
大桑城へ攻め込み、土岐頼芸を追放した。
土岐氏追放は、美濃国内の豪族を土岐氏との
長年の主従関係から切り放すためにどうしても
やなねばならぬ戦略であった。
■1548年、道三は家督を義龍に譲り、自らは
鷺山城へと隠居した。しかし、義龍と道三との
間には政略的な面で不和が生じており、
道三自身は、行く末を次男の孫四郎義重か、
三男の喜平次に譲るつもりでいた。
義龍はその道三の目論見を察知し、
1555年に突如、孫四郎義重と喜平次を謀殺し、
禍根を断った。
これにより道三と義龍の対立は決定的となり、
美濃を二分する戦いとなった。1万2000を
率いる義龍軍に対し、道三軍はわずか2000余。
劣勢でありながら、道三軍は奮戦した。
激戦の末、敗北した道三は城田寺へ退避し、
その後、再び戦場へ出撃し、華々しく戦い散った。
死を決意した道三は、2児を京都妙覚寺に送り、
娘婿の信長に美濃一国を譲る内容の書状を尾張へと送った。
長良川にて義龍軍と激戦した道三は、忠臣共々、討死した。