小早川 秀秋
こばやかわ ひであき
1582-1602
享年21歳。
名称:木下辰之助、羽柴秀俊、金吾中納言、筑前中納言、岡山中納言、秀詮
官位:従三位左衛門尉、参議、権中納言
居城:美濃大垣城→筑前名島城→
越前北ノ庄城→備前岡山城
■秀吉の正室・北政所の兄・木下家定の
子として誕生。秀吉の甥にあたる。母は杉原家次の娘。
秀吉に子がなかったため、秀秋3歳の
時、秀吉の養子となり、秀吉と北政所
から寵愛を受けた。
しかし、1593年(文禄2年)、秀吉に念
願の男児・秀頼が誕生したため、秀吉
の寵愛を秀頼に奪われてしまう。
1594年(文禄3年)には、秀秋は実子
がない毛利家の小早川隆景へ養子に
出されてしまう。
豊臣家から追い出されてしまった形と
なった秀秋ではあるが、同年11月には
、毛利輝元の養女と結婚し、毛利家と
豊臣家とを結びつける政略結婚のよう
な重用な外交の駒役を果たしている。
■1597年(慶長2年)、養父・小早川隆景
が没したことで小早川家を継いだ秀秋
は、筑前・筑後・肥前にまたがる領土を
有して、筑前名島城主となった。
■慶長の役では豊臣軍の大将として、出
陣を果たしたが、その際、老人や子供
を惨殺する軽率な行動をとってしまい
、秀吉から叱責を喰らった。
この失態により、1598年(慶長3年)、
秀秋は減封処分となり、越前北ノ庄へ
移封となった。
その後、徳川家康の取り成しや秀吉が
没したことで、1599年(慶長4年)2月、
豊臣家五大老の命により、再び筑前・
筑後への領国復帰を果たした。
この処置は、五大老の取り計らいとい
う形ではあったが、実のところは、秀吉
の意向でなされたという。
■1600年(慶長5年)、関ヶ原の戦いが起
こると、秀秋は西軍に属していたが、
家康に対し、東軍へ寝返りするための
使者を送っていた。
しかし、家康は秀秋の裏切りを信用で
きず、秀秋の寝返りを許さず、使者を
追い返した。
それでも西軍は不利と見ていた秀秋は
、何度となく家康へ寝返りする旨を託し
た使者を出し、関ヶ原決戦がまじかに
迫った際、ようやく秀秋の東軍寝返りが
了承された。
決戦が始まると秀秋は3万以上の大軍
を有しながらまったく動かず、戦況を見
守った。
決戦当初は、兵数に劣る東軍が劣勢
になっていたため、東軍へ寝返ること
をかなりためらっていた。
その後、家康の巧みな戦術で東西両
軍とも互角の状態に陥ると秀秋は家康
の催促の鉄砲で意を決して東軍へ寝
返った。
西軍の大谷隊へ攻撃を仕掛け、西軍
大敗の勝因を作った。
戦後、軍功一番と家康に褒め称えられ
たが、秀秋の内心は苦悩に満ちて
いた。
戦後すぐに開かれた軍事会議で東軍
へ寝返ったことへの忠誠心の証を示す
ために秀秋は石田三成の居城・佐和
山城攻撃を命ぜられた。
西軍の実質的な総大将を勤めていた
石田三成の居城であったため、城兵の
士気は高く、苦戦を強いる攻城戦とな
った。
この戦いで小早川軍は少なからず被
害を出す結果となった。
関ヶ原の争乱が一段落ついた頃、石田
三成が捕らえられ、東軍の軍議の席に
引きずり出されると、三成は、秀秋を卑
怯者呼ばわりをして、凄まじい怨念を
あらわにした。
■戦後、秀秋は筑前名島から西軍の宇喜
多秀家の旧領・備前岡山城へ移封とな
り、備前・美作50万石を拝領した。
加増という出世を果たした秀秋ではあ
ったが、石田三成ら西軍の敗軍の将た
ちからは、卑怯者呼ばわりされ、夜な
夜な怨霊が現れる悪夢に悩まされるよ
うになる。
気落ちした秀秋は、神仏にすがるほか
なく、領国内に寺社仏閣を数多く建立
して、怨霊の成仏を願った。
1602年、関ヶ原合戦後、心休まること
のない日々を過ごした秀秋は、心身と
もに疲弊して病没した。
享年21歳。
秀秋には嗣子がなかったため、鎌倉時
代以来、続いた名族・小早川家の宗家
は断絶するに至った。