目次
長篠の戦い(ながしののたたかい)とは?
長篠の戦いは、1575年(天正3年)5月21日に、現在の愛知県新城市の長篠城周辺で行われた合戦です。この戦いは、織田信長・徳川家康の連合軍と武田勝頼軍との間で行われ、戦国時代を代表する重要な合戦の一つです。特にこの戦いは、織田軍の大量の鉄砲(火縄銃)を用いた戦術によって武田軍の精鋭である騎馬隊が壊滅したことで有名です。この戦いの結果、武田家は衰退の道をたどり、戦国時代の終焉に向けた大きな一歩となりました。
1. 戦いの背景
◼️ 武田家の状況
長篠の戦いの主役の一人である武田勝頼(たけだ かつより)は、武田信玄の息子であり、1573年に信玄が病死した後、家督を継ぎました。父・信玄の頃から甲斐(山梨県)、信濃(長野県)を中心に勢力を拡大してきた武田家ですが、信玄の死後、織田信長や徳川家康との対立が続き、状況は厳しさを増していました。
しかし、武田勝頼は父に劣らず攻撃的な性格で、1575年には、織田・徳川の領地である三河国(愛知県東部)に侵攻し、長篠城を包囲しました。
◼️ 長篠城の戦略的重要性
- 長篠城は、徳川家康の支配下にあり、三河国と甲斐国を結ぶ重要な交通の要所でした。
- この城を落とせば、武田軍は三河からさらに西進して織田領へ進撃する足がかりを得ることができました。
長篠城は、奥平信昌(おくだいら のぶまさ)が守っており、数百の兵で頑強に抵抗していました。これに対して武田勝頼は、圧倒的な兵力をもって攻撃を加えましたが、奥平軍の粘り強い防衛と援軍要請によって状況が膠着し始めます。
2. 戦力の比較
項目 | 織田・徳川連合軍 | 武田軍 |
---|---|---|
総大将 | 織田信長、徳川家康 | 武田勝頼 |
兵力 | 約38,000人 | 約12,000~15,000人 |
主力部隊 | 鉄砲隊、足軽、弓兵、騎馬隊 | 騎馬隊(武田の精鋭部隊)、弓兵、足軽 |
戦術の特徴 | 鉄砲の集中的運用、防御的な陣形(防塁) | 騎馬隊による突破、突撃戦術 |
3. 戦闘の経過
◼️ ① 武田軍による長篠城包囲
- 1575年5月上旬、武田勝頼は長篠城を包囲し、奥平信昌の籠城戦が始まります。
- 勝頼は、何度も攻撃を仕掛けましたが、奥平軍は耐え抜きました。また、信昌の妻が徳川家康の養女であったため、彼らの士気は非常に高かったといわれています。
◼️ ② 織田・徳川連合軍の援軍到着
- 奥平信昌からの援軍要請を受けた織田信長と徳川家康は、速やかに連合軍を編成し、長篠城の救援に向かいました。
- 信長は38,000もの大軍を動員し、武田軍に対抗するための大規模な陣地を築きました。
◼️ ③ 鉄砲隊のための防塁構築
- 信長は、長篠城の近くに**三段構えの防塁(ほうるい)**を築きました。
- 防塁の前には三段撃ちの戦術を駆使するための鉄砲隊を配置し、敵の突撃を効率よく迎撃する計画を立てます。
- 鉄砲隊は三列に並び、第一列が発砲し、次に第二列、第三列と順番に発砲することで、常に弾幕を張る効果がありました。
- 当時の火縄銃は一発撃った後に再装填する時間がかかるため、この三段構えの戦術は効率的に敵を殲滅できるものでした。
◼️ ④ 武田軍の突撃と敗北
- 5月21日、武田勝頼は織田軍の防塁を突破するために、得意とする騎馬隊の突撃を行いました。
- しかし、織田軍の鉄砲隊が放つ激しい弾幕により、突撃した武田軍は次々に倒れていきました。
- 特に、雨天によって火縄銃が使えなくなるという武田軍の期待は外れ、晴天に恵まれたため、鉄砲の威力が最大限に発揮されました。
- 武田軍は数度にわたって突破を試みましたが、織田軍の鉄砲隊に阻まれ、ついに壊滅しました。
4. 戦いの結果と被害
結果 | 織田・徳川連合軍の圧勝 |
---|---|
武田軍の被害 | 壊滅的な損害(戦死者は約6,000~10,000人とも) |
織田・徳川軍の被害 | 比較的軽微 |
- 武田軍の主力であった騎馬隊の精鋭が壊滅し、武田家は軍事力を大きく損ないました。
- 武田家の重臣であった**山県昌景(やまがた まさかげ)や内藤昌秀(ないとう まさひで)**など、多くの武将が戦死しました。
5. 長篠の戦いのその後
◼️ 武田家の衰退
- 長篠の戦いの敗北によって武田家の勢力は著しく衰え、軍事的な回復が困難になりました。
- 1582年、織田信長と徳川家康の連合軍により武田勝頼は討たれ、武田家は滅亡しました。
◼️ 織田信長の台頭
- 長篠の戦いでの勝利は、織田信長の軍事的優位性を決定的なものにしました。
- この戦いで示された鉄砲の有効性は、その後の戦国時代における合戦のあり方を変え、伝統的な騎馬隊中心の戦術は次第に姿を消していきました。
6. 戦いの意義と評価
- 日本における鉄砲戦術の確立
長篠の戦いは、鉄砲の大量運用によって従来の騎馬突撃を打ち破ったことから、戦術革命と称されます。この戦い以降、鉄砲は日本の合戦で欠かせない武器となりました。 - 戦国時代の終焉への序章
武田家の敗北とその後の滅亡は、信長・家康の勢力を飛躍的に高め、戦国時代の統一に向けた進展を加速させました。
7. 結論
長篠の戦いは、単なる一地方での戦いにとどまらず、日本の軍事史における大きな転換点となりました。織田信長の革新的な戦術は、後の戦いに大きな影響を与え、最終的には徳川家康による江戸幕府の成立へとつながっていく一歩となったのです。
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