Wikipediaより参照:伊達政宗像(東福寺霊源院蔵、土佐光貞筆、江戸中期頃)
数少ない隻眼で描かれた肖像画。

摺上原の戦い(すりあげはらのたたかい)について詳しく解説します。
この戦いは1589年(天正17年)6月5日
に起こり、伊達政宗葦名義広(葦名盛氏の養子)の間で戦われました。結果として、伊達政宗が圧勝し、東北地方最大の強国であった葦名家が滅亡しました。

ここでは、戦いの経緯、戦術、各武将の動向、戦後の影響を詳しく解説していきます。


1. 戦いの背景

名門佐竹氏から蘆名氏へ養子に入った蘆名義広。伊達氏打倒を掲げ、独眼竜政宗と激突した。

摺上原の戦いの前には、伊達政宗と葦名家の間で長年の対立が続いていました。

項目詳細
戦国時代の東北情勢東北地方では伊達氏、葦名氏、佐竹氏、最上氏などの勢力が覇権を争っていた。
人取橋の戦い(1585年)伊達政宗が葦名・佐竹連合軍と戦い、撤退するも大敗は避ける。
蘆名盛氏の死(1586年)葦名家当主・葦名盛氏が死去し、後継者問題が発生。
蘆名義広の当主就任(1586年)佐竹義重の次男が葦名家の養子となり、「葦名義広」として当主となる。
伊達政宗の勢力拡大(1586-1588年)相馬氏、二階堂氏などを撃破し、葦名領を圧迫。
摺上原の戦い勃発(1589年)伊達政宗が総攻撃を決意し、会津へ侵攻。

2. 両軍の兵力と布陣

悲願の会津領奪取に動く伊達政宗の野望

2-1. 両軍の兵力比較

軍勢兵力主な指揮官
伊達軍約20,000伊達政宗、片倉景綱、伊達成実、鬼庭綱元
蘆名軍約16,000蘆名義広、佐瀬種常、富田勢源、金上盛備

伊達軍は葦名軍を上回る戦力を持っており、さらに組織的な戦術で優位に立っていました。


2-2. 布陣の概要

戦場となった摺上原は、会津若松城(黒川城)から北方約10kmに位置し、広い平原が広がっていました。

markdownコピーする編集する【葦名軍】(16,000)
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左翼隊(金上盛備) 5,000
右翼隊(富田勢源) 5,000
本隊(蘆名義広) 6,000
---------------------------------
【伊達軍】(20,000)
---------------------------------
右翼隊(伊達成実) 5,000
左翼隊(片倉景綱) 5,000
先鋒隊(鬼庭綱元) 3,000
本隊(伊達政宗) 7,000

3. 戦闘の流れ

3-1. 開戦前の状況

  • 伊達政宗は会津侵攻を決意し、20,000の兵を率いて進軍。
  • 蘆名軍は16,000の兵を集め、防御陣を構築。
  • 蘆名義広は佐竹氏に援軍を要請するも、間に合わず孤立。

3-2. 戦闘の開始

  • 鬼庭綱元率いる伊達軍の先鋒隊が突撃し、葦名軍の先鋒と激突。
  • 伊達成実と片倉景綱が左右から攻撃を仕掛け、蘆名軍を包囲しようとする。
  • 蘆名軍は当初善戦するも、伊達軍の火縄銃部隊の攻撃で動揺。

3-3. 伊達軍の総攻撃

  • 伊達政宗が本隊を率いて中央突破を敢行。
  • 蘆名義広は本隊を立て直そうとするが、伊達軍の攻撃の前に混乱。
  • 蘆名軍は総崩れとなり、敗走を開始。

3-4. 戦闘の決着

  • 伊達軍の騎馬隊が撤退する蘆名軍を追撃し、多くの将兵が討ち取られる。
  • 蘆名義広は黒川城に逃げ込むが、もはや抵抗できる戦力は残っていなかった。
  • 数日後、蘆名義広は佐竹氏のもとへ逃亡し、蘆名家は滅亡。

4. 戦後の影響

4-1. 伊達家の勢力拡大

摺上原の戦いに勝利したことで、伊達政宗は東北地方最大の勢力を確立しました。

戦後の変化内容
会津を制圧旧葦名領(会津一帯)を手中に収める。
伊達家の最大版図東北地方の大部分を支配する勢力へと成長。
関東勢力との緊張佐竹氏、上杉氏との対立が深まる。

4-2. 他勢力の動向

勢力戦後の影響
佐竹氏葦名義広を保護するも、伊達政宗の脅威を感じる。
上杉景勝会津への影響力を失い、伊達家との関係悪化。
豊臣秀吉東北地方の統一に関心を持ち始める。

4-3. 豊臣政権との対立

伊達政宗の急成長により、豊臣秀吉が東北地方に介入する可能性が高まることとなりました。

出来事
1590年豊臣秀吉の「小田原征伐」が開始される。
1591年伊達政宗は豊臣秀吉に服属し、独立勢力としての立場を失う。

5. まとめ

摺上原の戦いは、伊達政宗が東北の覇者となる決定的な戦いでした。
しかし、この勝利は同時に、豊臣秀吉の関心を引き、伊達家の独立性を失うきっかけにもなりました。

項目結果
戦術伊達軍の機動力と鉄砲戦術が勝因。
葦名家当主・葦名義広が敗走し、葦名家滅亡。
伊達家東北最大の勢力となる。
豊臣政権伊達家の動きを警戒し、後に介入。

この戦いの勝利によって、伊達政宗は「独眼竜」として全国に名を轟かせる存在となりましたが、その後の豊臣政権との関係において、新たな試練が訪れることになるのです。