
戸次川の戦いの詳細解説
1. 戦いの背景
豊臣秀吉の九州征伐の一環として、四国勢が九州の島津軍と戦う形で勃発した戦い。九州を制圧しようとする秀吉の勢力と、それに抵抗する島津氏の間で衝突が起こった。
2. 参戦勢力と指揮官
- 四国勢(豊臣側)
- 仙石秀久(総大将)
- 長宗我部元親(四国の武将)
- 長宗我部信親(四国の武将)
- 十河存保(四国の武将)
- 僧兵部隊
- 九州勢(島津側)
- 島津義久(総司令官)
- 島津義弘(実際の戦闘指揮)
- 島津家久(援軍)
3. 戦の展開
- 戦の始まり
- 豊臣側の軍勢が九州に上陸し、島津軍と衝突。
- 仙石秀久が先陣を切って攻撃を仕掛ける。
- 島津の「釣り野伏せ戦法」
- 島津軍は退却しながら敵を引き込み、伏兵で奇襲をかける戦法を採用。
- 仙石軍はこれに引っかかり、壊滅的な打撃を受ける。
- 四国勢の壊滅
- 十河存保、長宗我部元親らが敗北。
- 仙石秀久は戦場を離脱し、敗走する。
4. 戦の影響
- 仙石秀久の失脚
- この敗北の責任を問われ、仙石秀久は所領を失い、大名の地位を追われる。
- 島津氏の影響力拡大
- この勝利により、島津軍は一時的に九州での支配力を強化。
- しかし、後の豊臣軍の総攻撃により、最終的には島津も降伏を余儀なくされた。
5. 戦の意義
- 戦術の違い
- 島津軍の巧妙な戦術が勝因となった。
- 仙石軍の未熟な指揮が敗因。
- 豊臣政権の影響
- この戦いの後、豊臣秀吉は島津氏を屈服させるための大規模な軍事行動を起こした。
6. 戦後の動向
- 仙石秀久の再起
- 小田原征伐で功績を挙げ、大名として復帰。
- 島津氏の従属
- 1592年、島津氏は豊臣政権に服属し、九州の支配権を確保することとなる。
このように、戸次川の戦いは九州の戦局を大きく左右した戦である。
戸次川の戦いの戦の背景

1. 豊臣秀吉の九州征伐計画
戦国時代の後半、織田信長亡き後、天下統一を進めていた豊臣秀吉(当時は羽柴秀吉)は、次なる標的として九州地方を視野に入れていた。九州は戦国時代を通じて独立性の高い勢力がひしめく地域であり、中でも薩摩の島津氏は九州統一を進める有力な大名だった。
秀吉は、本能寺の変(1582年)の後、明智光秀を討ち、織田家内での権力闘争を制した後、中国・四国地方を平定。そして次に目を向けたのが九州の島津氏だった。
2. 島津氏の九州制圧戦
島津氏(薩摩国・現鹿児島県)は、戦国時代の後半に九州全域の支配を目指し、積極的に軍事行動を展開していた。特に1584年の沖田畷の戦いでは龍造寺隆信率いる強敵・龍造寺氏を破り、九州北部の支配権を確立しつつあった。
1585年には肥後・筑後(現熊本・福岡南部)の大名たちを制圧し、**大友氏(豊後国・現大分県)**を圧迫。大友宗麟は豊後に追い詰められ、豊臣秀吉に援軍を要請するほど窮地に陥っていた。これにより、秀吉は九州へ介入する名分を得ることとなった。
3. 四国勢の動員と豊臣の狙い
秀吉はすでに四国平定を終えており、四国の有力大名たちを自軍に組み入れていた。彼は、四国の長宗我部元親、十河存保、仙石秀久らを先遣隊として九州へ派遣することを決定。これが、戸次川の戦いへと繋がる。
秀吉の目的は次のように整理できる。
- 大友氏の救援 – 豊後国の大友宗麟を救うことで、九州への影響力を強める。
- 島津の進撃阻止 – 島津氏が九州全土を統一する前に介入し、勢力拡大を防ぐ。
- 四国勢の戦力試験 – 仙石秀久ら新たに登用した大名たちの実力を試す意味合いもあった。
4. 仙石秀久が総大将に選ばれた理由
戸次川の戦いの豊臣方の総大将には、四国攻めで功績を挙げた仙石秀久が選ばれた。しかし、仙石秀久はもともと織田信長の家臣であり、武将としてのキャリアも比較的浅かった。
当時、秀吉の家臣の中には、彼よりも豊富な戦歴を持つ者もいたが、彼が選ばれた理由として以下が考えられる。
- 秀吉への忠誠心が厚かった – 四国攻めの際、彼は秀吉の命令を忠実に実行し、戦果を挙げた。
- 新参の武将であり、秀吉が統制しやすかった – 古参の武将ではなく、新興勢力の武将であったため、秀吉にとって使いやすかった。
- 四国勢の主力をまとめられる立場だった – 仙石は讃岐(香川)を与えられており、四国の有力勢力である長宗我部元親や十河存保と連携が期待された。
しかし、彼は戦場経験が豊富ではなく、島津軍との本格的な戦争において適任であったかどうかは疑問視されることとなる。
5. 戦略的な地理要因
戸次川の戦いが行われた豊後国(現在の大分県)は、九州の北東部に位置し、大友氏の本拠地であった。しかし、この地域はすでに島津軍の侵攻を受けており、守勢に立たされていた。豊後の主要都市・大分市付近に位置する「戸次川」は、戦術的に重要な場所だった。
- 大分平野:開けた土地であり、大軍の展開が可能。
- 戸次川周辺の山岳地帯:伏兵を配置しやすく、島津軍の得意とする戦法「釣り野伏せ」に適した地形。
- 豊後水道:四国勢が海を越えて進軍するための補給線として機能。
6. 島津軍の戦術と優位性

島津軍は、戦国時代でも屈指の戦術を誇っていた。特に有名なのが「釣り野伏せ戦法」である。
- まず前線の部隊が戦闘を仕掛け、わざと退却する。
- 敵が追撃すると、あらかじめ配置した伏兵が一斉に攻撃を仕掛ける。
- これにより、敵軍を混乱させ、包囲殲滅する。
この戦術は、かつての「沖田畷の戦い」で龍造寺隆信を討ち取った際にも使用された。島津軍は、この釣り野伏せ戦法を用いることを想定し、豊後の地形を巧みに利用しながら迎撃の準備を整えていた。
一方で、仙石秀久ら四国勢は、このような戦法に不慣れであり、事前の偵察も十分でなかったため、不利な状況に陥ることとなる。
7. 豊臣軍の課題

豊臣軍は四国勢を主力としたが、戦略的にいくつかの問題を抱えていた。
- 指揮系統の問題
- 仙石秀久が総大将ではあったが、長宗我部元親などの有力武将との協調が十分でなかった。
- 長宗我部元親は、仙石の指揮に不満を抱いていたと言われる。
- 情報不足
- 島津軍の戦術を十分に理解しておらず、敵の戦略を見誤った。
- 伏兵の存在を軽視し、正面突破を試みるという戦術ミスを犯した。
- 地理的な不利
- 豊後の地形は、島津軍にとって有利な戦場であった。
- 山間部を利用した伏兵戦術に対応する準備が不足していた。
8. 背景のまとめ

- 豊臣秀吉が九州統一のために四国勢を動員。
- 島津氏が九州制圧を進め、大友氏を追い詰めていた。
- 仙石秀久が総大将に任命されたが、実戦経験不足。
- 島津軍の「釣り野伏せ」戦法と地理的要因が豊臣軍にとって不利な要素となった。
このように、戸次川の戦いは九州の覇権を巡る重要な戦いであり、豊臣軍が島津軍の巧妙な戦術に敗北することとなる。次章では、実際の戦闘の展開について詳しく解説する。
戸次川の戦いの参戦勢力
勢力 | 総兵力 | 主な指揮官 | 主な構成 |
---|---|---|---|
豊臣軍(四国勢) | 6000 | 仙石秀久, 長宗我部元親, 十河存保 | 四国の兵士(讃岐, 土佐)+ 僧兵 |
島津軍(九州勢) | 3000 | 島津義弘, 島津家久 | 薩摩, 大隅, 日向の精鋭 |
戸次川の戦い – 兵力比較
要点まとめ:
豊臣軍(四国勢)は約6,000名で、仙石秀久、長宗我部元親、十河存保が指揮。
島津軍(九州勢)は約3,000名で、島津義弘、島津家久が指揮。
豊臣軍の方が兵力は多かったが、戦術面で島津軍に大きく劣っていた。
戸次川の戦いの戦の展開
1. 戦の始まり
(1) 豊臣軍の布陣と進軍
1586年(天正14年)12月、豊臣秀吉の命を受けた四国勢(仙石秀久・長宗我部元親・十河存保)が、豊後国(現在の大分県)に上陸した。総勢6,000の軍勢を擁し、島津軍に対抗するため、大友宗麟の本拠地・**府内城(現在の大分市)**に入城した。
四国勢の進軍ルート:
- 四国(讃岐・土佐)を出発
- 海を渡り、豊後国に上陸
- 府内城で大友軍と合流
- 島津軍との決戦へ向けて進軍
府内城に到着した豊臣軍の主力は、ここで大友軍の残存勢力と合流し、島津軍を迎え撃つ準備を整えた。
(2) 島津軍の戦略と進軍
一方の島津軍(約3,000)は、先の戦で大友軍を撃破し、すでに豊後国の多くを掌握していた。指揮を執るのは戦上手の島津義弘と島津家久で、彼らは島津家の得意とする「釣り野伏せ戦法」を駆使して戦う計画を立てた。
島津軍の基本戦略:
- 敵を挑発して誘い出す
- 意図的に後退し、伏兵を配置
- 退却に見せかけて反撃する「釣り野伏せ」戦法を実行
島津軍は、豊臣軍が無謀な攻撃を仕掛けてくると確信し、それに備えていた。
2. 戦闘の展開

(1) 仙石秀久の独断突撃
12月12日、豊臣軍は島津軍を迎撃するため、府内城から南へ進軍し、戸次川(現在の大野川)へと向かった。
しかし、ここで重大な戦略ミスが起こる。総大将であった仙石秀久は、島津軍を甘く見ており、慎重な長宗我部元親や十河存保の意見を無視して独断で突撃を決断したのである。
仙石秀久の誤算:
- 島津軍の兵力が少ないと判断(実際は計画的な布陣)
- 長宗我部・十河の慎重策を無視
- 大軍の利を活かす前に、前線部隊を危険に晒した
結果として、仙石軍の先鋒部隊(讃岐・土佐勢)が島津軍の罠にはまる形となった。
(2) 島津軍の「釣り野伏せ戦法」発動

島津軍はあらかじめ戦場を設定し、豊臣軍を戸次川に引き込んだ。
- 島津軍の前衛部隊があえて撤退し、仙石軍を引き込む
- 仙石軍は「敵が逃げている」と誤認し、さらに突撃を続ける
- 島津義弘・家久が待ち伏せしていた伏兵が、側面から急襲
- 仙石軍の前線は大混乱し、戦列が崩壊
この時点で仙石軍は壊滅的な損害を受け、戦闘の主導権を完全に島津軍に奪われた。
(3) 長宗我部元親・十河存保の撤退戦

島津軍の奇襲により、仙石軍の前線は完全に崩壊。続いて、豊臣軍の主力であった長宗我部元親・十河存保の部隊が奮戦するが、総崩れの流れは止められなかった。
- 長宗我部元親は、部隊をまとめながら撤退を図る
- しかし、十河存保の軍は完全に孤立
- 十河存保は討ち死に(享年45)
- 長宗我部信親も討ち死に(享年23)
この混乱の中、長宗我部元親は軍をまとめて撤退。わずかな兵を連れて府内城へと逃げ込んだ。
一方、仙石秀久は敗戦の責任を恐れ、戦場を放棄して逃亡した。
3. 戦闘後の状況

(1) 豊臣軍の敗北
この戦いにより、豊臣軍(四国勢)は約6,000の兵力のうち3,000近くを失い、大敗を喫した。敗走した仙石秀久はそのまま豊臣秀吉の怒りを買い、所領を没収され、浪人の身となる。
(2) 島津軍の戦果
島津軍はわずか3,000の兵で、倍の兵力を持つ豊臣軍に圧勝。この勝利により、九州での支配力をさらに強めた。
(3) 豊臣秀吉の反撃
戸次川の戦いの敗北を受け、秀吉は四国勢ではなく、自らの直轄軍(10万以上の大軍)を九州へ派遣。結果的に、島津氏は最終的に降伏することとなる。
4. 戦の総括

(1) 豊臣軍の敗因
- 仙石秀久の判断ミス
- 戦場の情報を正確に把握せず、過信して突撃した
- 島津軍の戦術を軽視し、敵の「釣り野伏せ」に見事に引っかかった
- 指揮系統の乱れ
- 長宗我部元親は慎重だったが、仙石秀久が独断で攻撃を決行
- 十河存保、長宗我部信親が討ち死にするなど、全体的な連携が取れていなかった
- 地形を利用した島津軍の戦術
- 戸次川の地形を利用し、豊臣軍をおびき寄せてから側面攻撃
- 釣り野伏せ戦法により、戦力差を覆した
(2) 島津軍の勝因
- 的確な情報分析
- 島津軍は豊臣軍の油断を見抜き、事前に伏兵を配置していた
- 戦場の地形を活用
- 伏兵を効果的に配置し、包囲殲滅戦を展開
- 優れた指揮官
- 島津義弘・家久は戦場指揮に長け、相手の弱点を突く戦術を取った
5. 戦の影響

- 仙石秀久は失脚し、浪人となる(後に復活)
- 長宗我部信親は、父元親を逃がすため、戦場にとどまり奮戦死
- 十河存保は戦死し、家が断絶
- 島津軍は勢力を拡大したが、最終的に秀吉の大軍に敗北
この戦いは、戦術の違いが戦況を大きく左右することを示した典型的な例となった。
戸次川の戦いの戦後の影響
戸次川の戦い(1586年12月)は、島津軍が豊臣軍(四国勢)に圧勝した戦いだった。しかし、この戦いの結果は、単に島津の勝利にとどまらず、豊臣秀吉の九州征伐を加速させる要因となった。この戦いの影響は、豊臣軍・島津軍・各武将の運命に大きな変化をもたらした。ここでは、戦後の影響について詳しく解説する。
1. 豊臣軍の影響
(1) 仙石秀久の失脚
戸次川の戦いで、総大将であった仙石秀久は独断で突撃し、大敗を招いた。この責任を取らされ、秀久は所領を没収され、浪人となった。
- 主な処分
- 讃岐国(香川県)の領地を没収
- 豊臣秀吉からの信頼を完全に失う
- 諸大名からの評価も低下し、仕官先がなくなる
- 長年の蟄居生活を余儀なくされる
仙石秀久はこの後、約4年間浪人生活を送り、1590年の小田原征伐で功績を挙げることでようやく復帰することになる。
(2) 長宗我部元親の評価の低下
四国の有力大名である長宗我部元親は、この戦いで仙石秀久の命令に従ったものの、大敗を喫したことで秀吉の信頼を失った。さらに、戸次川で敗北したことにより、四国勢の軍事的評価は大きく低下した。特に嫡子・信親の戦死への影響は大きく、後に起こる関ヶ原の戦い後のお家騒動によって、長宗我部家の領地没収の導火線となった。
- 長宗我部家への影響
- 豊臣秀吉からの評価低下
- 四国勢の軍事力が弱いと見なされる
- 関ヶ原の戦い後に領土を没収され、家が衰退する遠因となる
長宗我部元親は戦後も秀吉に従い、朝鮮出兵などにも参加するが、最終的には豊臣政権下で影響力を失っていく。
(3) 十河存保の戦死と家の滅亡
この戦いで戦死した十河存保(そごう まさやす)は、讃岐十河家の当主であり、四国における有力武将の一人だった。彼の死により、十河家は後継者を失い、事実上滅亡することとなった。
- 十河家の滅亡
- 戸次川で存保が戦死
- 豊臣政権下で十河家の影響力が消滅
- 讃岐国の支配権が豊臣家に吸収される
十河存保の死は、四国勢の衰退を加速させた。
2. 島津軍の影響
(1) 戦術的な勝利と九州制圧の加速
戸次川の戦いの勝利により、島津軍は九州における影響力をさらに強化した。特に大友氏の勢力が大きく衰退したことが、島津にとって最大の成果となった。
- 島津軍の戦果
- 豊後国(現在の大分県)の大部分を制圧
- 大友氏の抵抗を大幅に弱体化
- 九州北部進出の足がかりを得る
この戦いで勝利した島津軍は、その後も北上を続け、九州統一を目前にするほどの勢力を誇った。
(2) 豊臣秀吉の本格的な介入を招く
しかし、島津軍の勝利は同時に、豊臣秀吉の怒りを買う結果ともなった。もともと秀吉は、四国勢の軍を先遣隊として派遣し、様子を見ながら九州への介入を進めるつもりだった。
しかし、戸次川で四国勢が敗北したことで、秀吉は次の決断を下す。
- 「島津を完全に滅ぼす」
- 「大規模な軍を派遣し、九州を制圧する」
これにより、秀吉は自らの直轄軍を九州へ派遣し、九州征伐を本格化させることとなった。
3. 豊臣秀吉の九州征伐
戸次川の戦いの敗北を受け、秀吉は1587年(天正15年)に大軍を動員して九州征伐を開始する。
- 総勢10万を超える大軍
- 黒田官兵衛・加藤清正・福島正則などの主力武将を投入
- 短期間で島津軍を壊滅させ、降伏させる
結果として、1587年に島津氏は降伏し、九州は豊臣政権の支配下に入った。この戦いは、秀吉の天下統一の最終段階を形成する重要な出来事となった。
4. 九州の戦国勢力の消滅
(1) 大友氏の衰退
- もともと九州北部の有力大名だった大友氏は、島津軍の攻撃によって完全に弱体化。
- 秀吉による九州征伐の後、勢力を大きく削がれ、やがて改易される。
(2) 島津氏の従属
- 九州征伐で降伏した後、島津氏は豊臣政権下で存続を許されたが、大名としての影響力は激減。
- その後、関ヶ原の戦い(1600年)では西軍側につくが、最終的に徳川家康に従属する。
5. 日本全国への影響
(1) 豊臣政権の全国支配強化
戸次川の戦いは、九州征伐を加速させ、最終的に秀吉が日本全国を統一するきっかけとなった。この戦いの敗北がなければ、秀吉の九州征伐の規模は小さくなっていた可能性がある。
(2) 近世大名体制の確立
秀吉は九州征伐後、九州に新たな大名を配置した。
- 加藤清正(熊本)
- 小西行長(肥後)
- 島津氏(薩摩) → 生き残るが影響力は低下
この結果、日本全国が豊臣政権の支配下に置かれ、「近世大名体制」が形作られることになった。
6. まとめ
- 仙石秀久は失脚し、長年の浪人生活を送る
- 長宗我部家の影響力が低下
- 十河家は滅亡
- 島津軍は勝利したが、結果的に秀吉の大軍を呼び込むことになり、降伏を余儀なくされた
- 豊臣秀吉の九州征伐が加速し、最終的に全国統一が完成する
戸次川の戦いは、一見すると島津軍の勝利に見えるが、結果的には豊臣秀吉による天下統一を決定的にする戦いとなった。この戦いが日本史に与えた影響は非常に大きく、戦国時代終盤の大きな転換点となった。
戸次川古戦場 しまづくめ
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