本多 忠勝
(ほんだ ただかつ)
1548-1610
享年63才
●名称:鍋之助、平八郎


●居城:上総大多喜城→
伊勢桑名城

■1548年
織田家との激戦で戦死した本多
忠高の子。母は、稲村氏義の娘。
本多家の先祖は豊後国本多の
出身である。

■1560年 13才
今川義元の尾張攻めの際、大高
城に兵糧を運び入れ、守備した
松平元康の軍勢に従軍。

■1561年 14才
鳥屋根城攻めで叔父・本多忠真
が敵を倒し、その首級を挙げる
ように忠勝に促したが、忠勝は
これを断り、自力で敵を切り倒し
、首級を挙げた。
これを聞いた家康は忠勝の武
勇を大いに喜んだという。

■1566年 19才
家康の信任を得た、忠勝は50人
の同心を預けられ、旗本となり、
家康直属の武将として常に先鋒
を務め、大いに活躍する。

■1572年 25才
三方ヶ原の戦いでは、武田、徳川
両軍があい乱れる白兵戦の只中
にあって、冷静沈着に指揮を取り
、両軍の諸将から感嘆された。

■1575年 28才
長篠の戦いでは、徳川軍の軍奉
行を務め、首尾よくその重任を果
たした。

■1582年 35才
家康の京入洛に近侍し、本能寺
の変後、家康一行を三河へ無事
帰還させるのに尽力し、家康より
賞賛を受ける。

■1584年 37才
小牧-長久手の戦いでは、秀吉の
大軍が長久手へ転進するのを50
0ほどの手勢で横合いから銃撃し
、大軍を押しとどめようと奮戦。
その武勇振りに感嘆した秀吉は、
自軍が本多軍へ応戦することを
許さなかった。

■1585年 38才
忠勝は、小牧-長久手合戦で奮戦
した武勲により、侍大将に任ぜら
れる。
秀吉と家康との講和が成ると、そ
の軍使として秀吉の許に向かうと
、秀吉からその武勇を賞され、従
五位下中務大輔に叙任され、貞
宗の刀を賜る。

■1590年 43才
秀吉の小田原征伐が起こると徳
川軍の先鋒として出陣。
宇都宮にて、秀吉に召されて、古
将・佐藤忠信の甲冑を賜るが、忠
勝は家康への忠勤に励み、秀吉
をいっそう感じ入らせた。
小田原征伐が終わると、家康の
関東移封が決まり、忠勝は上総
大多喜城10万石を拝領した。

■1600年 53才
関ケ原合戦においては、天下無
双の島津義弘が率いる軍勢を追
撃。首級90余騎を挙げ、『家康に
過ぎたるものが二つあり、唐の頭
に本多平八』とうたわれて、並み
居る諸将を震え上がらせた。

■1601年 54才
忠勝は徳川政権の地理的軍略に
より、伊勢桑名城10万石へ移封と
なる。

■1610年 62才
「鬼の平八」も老いには勝てず、
没す。
享年63才。
忠勝は生涯を通じて、大小57の
合戦に参軍し、一度も負傷しなか
ったという。
これは、忠勝が混乱に満ちた線上
にあっても常に冷静沈着に武勇
を振るったことを物語っている。
また、激戦あっても合戦の情勢を
いち早く見抜き、攻め時、退く時を
的確に実行した名将であった。

伝・本多忠勝所用の甲冑(黒糸威胴丸具足)