目次
1. 足利義輝の生い立ちと室町幕府の衰退
足利義輝(あしかが よしてる、1536年~1565年)は、室町幕府第13代将軍であり、戦国時代の動乱の中で幕府権力を取り戻そうと奮闘した人物です。
しかし、彼の生涯は戦乱と裏切りに満ち、最終的には戦国大名に暗殺されるという悲劇的な結末を迎えました。
本章では、足利義輝の誕生から、幼少期の教育、父・足利義晴との関係、そして彼が将軍職に就くまでの経緯と、室町幕府の衰退について詳しく解説します。
1-1. 足利義輝の誕生
1-1-1. 幼名「菊童丸」
足利義輝は、1536年3月31日(天文5年3月10日)に、室町幕府第12代将軍・足利義晴(あしかが よしはる)の長男として生まれました。
幼名は「菊童丸(きくどうまる)」と名付けられました。
項目 | 内容 |
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生誕 | 1536年(天文5年)3月10日 |
父 | 足利義晴(第12代将軍) |
母 | 慶寿院(近衛尚通の娘) |
幼名 | 菊童丸(きくどうまる) |
出身地 | 京都(室町幕府) |
彼は将軍家の嫡男として生まれましたが、室町幕府はすでに戦国大名たちの争いによって権威が失われつつある時代でした。
1-1-2. 父・足利義晴の苦境
義輝の父・足利義晴は第12代将軍でしたが、幕府の実権は戦国大名に奪われ、権威はほとんど失われていました。
特に、畿内では**細川晴元(ほそかわ はるもと)や三好長慶(みよし ながよし)**といった戦国大名が実権を握っており、将軍は次第に「名ばかりの存在」となっていました。
年 | 出来事 |
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1536年 | 足利義輝が生まれる |
1543年 | 足利義晴が細川晴元・三好長慶と対立し、京都を追われる |
1546年 | 足利義晴が病に倒れ、将軍職を息子・義輝(当時11歳)に譲る |
父・義晴は戦国大名たちと抗争を繰り返し、たびたび京都を追われていました。
そのため、義輝は将軍の子でありながら、安定した生活を送ることができない幼少期を過ごしました。
1-2. 幼少期の教育と剣術修行
1-2-1. 将軍家の教育
足利義輝は、室町幕府の将軍の子として、幼少期から学問や武芸の教育を受けました。
当時の将軍は、「武士の棟梁」としての役割だけでなく、公家文化の継承者でもあり、漢詩、和歌、書道、茶道などの素養を身につけることが求められていました。
教育内容 | 内容 |
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学問 | 漢詩、儒学、書道 |
武芸 | 剣術、弓術、槍術 |
文化 | 和歌、茶道 |
義輝は学問にも熱心でしたが、特に武芸、特に剣術に非常に優れた才能を発揮しました。
1-2-2. 剣豪将軍の基礎
義輝は、幼少期から剣術の修行に励み、後に「剣豪将軍」として知られるようになりました。
特に、剣術の名人として知られる**塚原卜伝(つかはら ぼくでん)や愛洲移香斎(あいす いこうさい)**から剣術を学んだと言われています。
師範 | 流派 |
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塚原卜伝 | 鹿島新当流 |
愛洲移香斎 | 陰流 |
剣術の腕を磨いた義輝は、後に「剣を振るう将軍」として、戦乱の中で壮絶な最期を遂げることになります。
1-3. 11歳で将軍職を継ぐ
1-3-1. 足利義輝の将軍就任(1546年)
1546年(天文15年)、義輝が11歳のとき、父・足利義晴が病に倒れたため、将軍職を譲られました。
このとき、義輝はまだ幼かったため、実権は父の義晴や幕府の重臣が握っていました。
年 | 出来事 |
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1546年 | 足利義輝が11歳で第13代将軍となる |
1550年 | 三好長慶の台頭により京都を追われる |
1552年 | 父・義晴が死去し、義輝が正式に政務を執る |
しかし、将軍となった義輝の前に、畿内最大の戦国大名・三好長慶が立ちはだかりました。
1-3-2. 幕府の衰退と将軍権威の低下
義輝が将軍に就任した頃、室町幕府の力はすでに衰退しており、戦国大名たちの争いに翻弄されていました。
特に、三好長慶は将軍の権威を無視し、幕府の実権を握ろうとしました。
問題 | 内容 |
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畿内の戦国大名 | 三好長慶、細川晴元らが実権を握る |
幕府の権威 | 名ばかりの存在になり、実権がない |
戦乱 | 京都を巡る戦いが続く |
義輝はこの混乱の中で、なんとか将軍権力を回復しようと奮闘しますが、戦国大名の力には及びませんでした。
1-4. まとめ
足利義輝は、戦国時代の混乱の中で生まれ、幼少期から将軍としての教育を受けました。
しかし、幕府の実権はすでに戦国大名たちに奪われており、義輝は幼くして厳しい政治闘争に巻き込まれることになりました。
項目 | 内容 |
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生誕 | 1536年、足利義晴の長男として生まれる |
教育 | 漢詩、和歌、剣術などを学ぶ |
剣豪将軍の素養 | 塚原卜伝らに剣術を学ぶ |
将軍就任 | 1546年(11歳)、父・義晴の後を継ぐ |
次の章では、足利義輝の将軍としての政治と、戦国大名との対立について詳しく解説します。
2. 足利義輝の将軍としての統治と戦国大名との対立
足利義輝(あしかが よしてる、1536年~1565年)は、室町幕府第13代将軍として、幕府の権威回復を目指しましたが、戦国大名たちの勢力争いに巻き込まれ、苦難の統治を強いられました。
彼は、戦国大名に対抗しながら幕府の威厳を取り戻そうとしましたが、畿内の有力戦国大名・三好長慶(みよし ながよし)や松永久秀(まつなが ひさひで)と対立し、幕府の実権を奪われることになります。
本章では、足利義輝が将軍としてどのような政治を行ったのか、戦国大名との関係、幕府の権威回復の試み、そして三好長慶との対立について詳しく解説します。
2-1. 足利義輝の将軍就任と室町幕府の現状
2-1-1. 幕府の権力低下
義輝は、1546年(天文15年)、11歳で将軍に就任しましたが、実権はまだ父・足利義晴や幕府の重臣が握っていました。
この時期、室町幕府は戦国大名たちの勢力争いによって衰退し、もはや名ばかりの存在となっていました。
項目 | 内容 |
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将軍就任 | 1546年(11歳) |
実権 | 戦国大名(三好長慶ら)が握る |
幕府の状態 | 権威が低下し、戦国大名の支配下にある |
幕府の実権は、すでに畿内の戦国大名たちに奪われており、義輝は「傀儡の将軍」として操られる状況にありました。
2-1-2. 三好長慶の台頭
この頃、畿内の有力戦国大名である三好長慶(みよし ながよし)が幕府の実権を掌握し、義輝の権力を抑え込んでいました。
三好長慶は、当初は細川晴元(ほそかわ はるもと)に仕えていましたが、次第に実力をつけ、1549年には細川晴元を追放して、畿内の支配者となりました。
項目 | 内容 |
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三好長慶の拠点 | 摂津(現在の大阪府北部)、阿波(徳島県) |
幕府との関係 | 幕府を形だけ存続させ、自らが実権を握る |
政治の方針 | 幕府を支配しながら、自らが実質的な統治者となる |
義輝は、三好長慶の圧力の下で政治を行わざるを得ず、実権を握ることができない状態が続きました。
2-2. 将軍としての政治と戦国大名との関係
2-2-1. 将軍権力の回復を目指す
義輝は、戦国大名による幕府支配を嫌い、独自に将軍権力を回復するための施策を講じました。
彼は、全国の戦国大名に対して、**「幕府の権威を復活させるため、将軍に忠誠を誓うように」**と要請しました。
支援を求めた戦国大名 | 内容 |
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上杉謙信(越後) | 「幕府を支えるために上洛せよ」と要請 |
武田信玄(甲斐) | 「将軍を支えるために京都へ進軍せよ」と呼びかけ |
毛利元就(中国) | 西日本の戦国大名として協力を求める |
しかし、当時の戦国大名たちは各地で戦を繰り広げており、京都の幕府を助ける余裕はありませんでした。
2-2-2. 戦国大名との関係
義輝は、全国の戦国大名と積極的に関係を築こうとしましたが、実際には畿内の三好長慶の支配力が強すぎたため、義輝の権力回復は困難でした。
特に、三好長慶と松永久秀の二人は、義輝の政治を妨害し、実質的に将軍の権限を奪い続けました。
戦国大名 | 義輝との関係 |
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三好長慶 | 将軍を操ろうとするが、義輝は抵抗 |
松永久秀 | 三好長慶と協力し、幕府の実権を握る |
上杉謙信 | 義輝を支持するが、上洛はせず |
結果的に、義輝は戦国大名たちとの関係を築くことはできたものの、彼らを直接動かすことはできませんでした。
2-3. 三好長慶との対立
2-3-1. 義輝の抵抗
義輝は、三好長慶に対抗しようとしましたが、軍事的な力が不足しており、効果的な抵抗はできませんでした。
そこで彼は、武田信玄・上杉謙信・毛利元就といった強力な戦国大名に「幕府のために戦うよう」呼びかけましたが、いずれも実現しませんでした。
戦略 | 結果 |
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他の戦国大名と同盟を結ぶ | 戦国大名たちは京都に関心がなく、協力は難航 |
幕府の兵力を強化 | 三好軍の方が圧倒的に強く、劣勢が続く |
最終的に、義輝は戦国大名の支援を得られず、三好長慶の支配を受け入れざるを得ませんでした。
2-3-2. 松永久秀の暗躍
義輝と三好長慶が対立する中、三好家の重臣である松永久秀(まつなが ひさひで)が暗躍し、将軍暗殺の計画を進めていました。
松永久秀は、戦国時代を代表する謀略家であり、義輝を排除して完全に幕府を支配しようと考えていました。
項目 | 内容 |
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松永久秀の目的 | 義輝を排除し、幕府を完全支配 |
暗殺計画 | 将軍を襲撃する準備を進める |
この陰謀が、のちに義輝の悲劇的な最期へとつながります。
2-4. まとめ
足利義輝は、戦国大名たちに対抗しながら幕府の権威回復を目指しましたが、畿内を支配する三好長慶や松永久秀の圧力により、実質的な権力を持つことができませんでした。
義輝は、全国の戦国大名に助けを求めましたが、誰も動いてはくれませんでした。
項目 | 内容 |
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将軍の目標 | 室町幕府の権威回復 |
戦国大名との関係 | 三好長慶・松永久秀と対立 |
結果 | 将軍権力を取り戻せず、孤立 |
次の章では、足利義輝の最後の戦いと「永禄の変」について詳しく解説します。
3. 足利義輝と三好長慶・松永久秀の対立 – 将軍権力の喪失
足利義輝(あしかが よしてる、1536年~1565年)は、室町幕府第13代将軍として幕府の再興を目指しましたが、戦国大名の勢力争いに巻き込まれ、次第に権力を失っていきました。
彼は、特に畿内の実力者である三好長慶(みよし ながよし)や松永久秀(まつなが ひさひで)と対立し、最終的には将軍としての実権を完全に奪われることになります。
本章では、義輝がどのようにして三好長慶や松永久秀と対立し、どのように将軍としての権力を失っていったのかを詳しく解説します。
3-1. 三好長慶と足利義輝の対立
3-1-1. 三好長慶の台頭
足利義輝が将軍に就任した頃、畿内の支配権は三好長慶が握っていました。
三好長慶は、細川晴元(ほそかわ はるもと)に仕えていましたが、次第に勢力を拡大し、1549年には細川晴元を追放して畿内の覇権を掌握しました。
項目 | 内容 |
---|---|
三好長慶の拠点 | 摂津(現在の大阪府北部)、阿波(徳島県) |
幕府との関係 | 幕府を支配下に置き、将軍を傀儡とする |
政治の方針 | 幕府を存続させつつ、実質的な統治者となる |
三好長慶は、幕府を完全に滅ぼすのではなく、名目上の将軍を存続させることで、自らの支配を正当化しようとしました。
3-1-2. 義輝の抵抗
義輝は、三好長慶の支配に不満を持ち、将軍としての独立を取り戻そうとしました。
彼は、全国の戦国大名に対し、「幕府を支えるために上洛せよ」と要請しました。
支援を求めた戦国大名 | 内容 |
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上杉謙信(越後) | 「幕府を支えるために上洛せよ」と要請 |
武田信玄(甲斐) | 「幕府を守るために京都へ進軍せよ」と呼びかけ |
毛利元就(中国) | 中国地方の戦国大名として協力を求める |
しかし、戦国大名たちはそれぞれの領地で戦をしており、京都の幕府を助ける余裕がありませんでした。
義輝の呼びかけに応じる大名はいませんでした。
3-1-3. 幕府軍の敗北
1558年、義輝は三好長慶の支配から脱しようとし、幕府軍を動員して戦いを挑みましたが、畿内の支配を固めていた三好軍に敗北しました。
戦い | 年 | 結果 |
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久我畷の戦い | 1558年 | 幕府軍が三好軍に敗北 |
義輝の逃亡 | 1558年 | 義輝は京都を一時離れ、近江へ逃れる |
この敗北により、義輝は完全に三好長慶の支配下に置かれ、将軍権力を失うことになりました。
3-2. 松永久秀の暗躍
3-2-1. 松永久秀とは?
松永久秀(まつなが ひさひで)は、三好長慶の家臣でありながら、後に三好氏を裏切って独立した謀略家です。
彼は、三好長慶の死後に畿内の支配権を巡って争い、将軍・義輝を完全に排除しようと画策しました。
項目 | 内容 |
---|---|
松永久秀の立場 | 三好長慶の家臣(後に裏切る) |
目的 | 畿内の支配権を独占するため、義輝を排除 |
戦略 | 三好三人衆と共に将軍暗殺計画を進める |
松永久秀は、義輝の排除を計画し、ついに「永禄の変」と呼ばれるクーデターを決行します。
3-2-2. 三好三人衆との共謀
三好長慶が1564年に死去すると、その家臣たちの間で内紛が勃発しました。
この混乱を利用して、松永久秀は三好三人衆(三好氏の重臣たち)と手を組み、足利義輝を暗殺する計画を進めました。
三好三人衆 | 役割 |
---|---|
三好長逸(ながやす) | 謀略を担当 |
三好政康(宗渭(そうい)) | 軍事指揮官 |
岩成友通(いわなり ともみち) | 京都での制圧を担当 |
義輝の側近たちは、この陰謀を察知していたものの、軍事力が不足しており、有効な対抗策を取ることができませんでした。
3-3. 将軍権力の完全喪失
3-3-1. 義輝の孤立
1565年、松永久秀と三好三人衆は、ついに義輝を抹殺するために京都に攻め入りました(永禄の変)。
この時、義輝の側近のほとんどが三好氏に買収されており、幕府の軍事力は極端に弱まっていました。
項目 | 内容 |
---|---|
年 | 1565年(永禄8年) |
敵 | 松永久秀・三好三人衆 |
幕府の状況 | ほとんどの家臣が裏切り、義輝は孤立 |
義輝は、自ら剣を手に取り、わずかな側近とともに応戦しましたが、最終的には敗れました。
3-3-2. 幕府の終焉
義輝の死によって、室町幕府の権威は完全に失われました。
この後、足利義昭(義輝の弟)が15代将軍となりますが、実質的には織田信長の傀儡となり、室町幕府は戦国時代の終焉とともに消滅していきます。
項目 | 内容 |
---|---|
義輝の死後 | 室町幕府の権威が完全に崩壊 |
義昭の登場 | 義輝の弟・足利義昭が織田信長に擁立される |
幕府の終焉 | 1573年、信長によって室町幕府が滅亡 |
義輝の死は、戦国時代における室町幕府の権威の完全崩壊を象徴する出来事でした。
3-4. まとめ
足利義輝は、将軍として幕府の権威回復を目指しましたが、三好長慶や松永久秀らの圧力により、次第に実権を失っていきました。
最終的には、「永禄の変」によって暗殺され、室町幕府の権力は完全に崩壊しました。
項目 | 内容 |
---|---|
三好長慶との対立 | 三好氏の支配に抵抗するが敗北 |
松永久秀の暗躍 | 幕府の実権を奪い、義輝の排除を計画 |
永禄の変(1565年) | 義輝が松永久秀・三好三人衆により暗殺される |
幕府の衰退 | 室町幕府の権威が完全に崩壊 |
次の章では、足利義輝の最期と「剣豪将軍」としての伝説について詳しく解説します。
4. 足利義輝の最期と「剣豪将軍」の伝説 – 永禄の変(1565年)
足利義輝(あしかが よしてる、1536年~1565年)は、戦国時代の室町幕府第13代将軍として、幕府の権威回復を目指しましたが、最終的には戦国大名の権力争いに巻き込まれ、非業の死を遂げました。
彼の最期は、「永禄の変(えいろくのへん)」と呼ばれる事件で、剣を振るいながら壮絶な死を迎えたと伝えられています。
この戦いにより、室町幕府の実権は完全に失われ、事実上の滅亡へと向かうことになります。
本章では、足利義輝の最期の戦い、永禄の変の経緯、「剣豪将軍」としての逸話、そして彼の死後の影響について詳しく解説します。
4-1. 永禄の変(1565年)
4-1-1. 幕府の崩壊と義輝の孤立
1565年(永禄8年)、畿内の実力者・松永久秀(まつなが ひさひで)と三好三人衆(三好長逸・三好宗渭・岩成友通)は、足利義輝を暗殺し、幕府の実権を完全に掌握しようとしました。
三好長慶の死後、三好家の内部は混乱しており、松永久秀は将軍を排除して畿内の覇権を確立しようと考えていました。
項目 | 内容 |
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事件名 | 永禄の変(えいろくのへん) |
年 | 1565年6月17日 |
主犯 | 松永久秀・三好三人衆 |
目的 | 将軍を暗殺し、幕府の実権を奪う |
場所 | 二条御所(京都) |
義輝は、畿内の大名たちに支援を求めていましたが、すでに幕府の権威は失われており、誰も援軍を送ることはありませんでした。
彼は完全に孤立し、松永久秀らの軍勢を迎え撃つことになりました。
4-1-2. 松永久秀・三好軍の襲撃
1565年6月17日、松永久秀と三好三人衆は約1万の兵を率い、義輝のいる二条御所(京都の将軍御所)を包囲しました。
義輝の護衛兵はわずか300名程度しかおらず、戦力差は圧倒的でした。
項目 | 内容 |
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攻撃軍 | 松永久秀・三好三人衆(1万) |
防衛軍 | 足利義輝の護衛兵(約300) |
戦力差 | 圧倒的に松永久秀軍が優勢 |
義輝の側近たちは「逃げるべきだ」と進言しましたが、義輝は「将軍として最後まで戦う」と決意し、剣を手に取ります。
4-2. 剣豪将軍の最期
4-2-1. 部屋に立てかけた無数の刀
足利義輝は、襲撃が始まる前から、自身の部屋に多くの刀を立てかけて準備していたと伝えられています。
彼は、戦いの中で1本の刀が折れると、すぐに次の刀を手に取り、次々と敵を斬り伏せたといわれています。
逸話 | 内容 |
---|---|
刀を多数用意 | 戦いのために部屋中に刀を立てかける |
次々と刀を持ち替える | 刀が折れたら次の刀を使い、戦い続ける |
圧倒的な剣技 | 多数の敵を斬り倒し、激しく抵抗する |
義輝の剣技は、後に「剣豪将軍」として語り継がれる伝説となりました。
4-2-2. 激戦と最期
義輝は、松永久秀・三好軍の兵を次々に斬り倒しましたが、数の差には勝てませんでした。
最終的には、槍や薙刀で囲まれ、剣を奪われたところを集団で押さえつけられ、討ち取られたと伝えられています。
項目 | 内容 |
---|---|
戦いの結末 | 義輝は最後まで戦うが、多勢に無勢で討死 |
享年 | 30歳 |
戦死した場所 | 二条御所(京都) |
彼の最期は、まさに戦国の武将のような壮絶なものであり、「戦いながら死んだ将軍」として後世に語り継がれました。
4-3. 足利義輝の死後
4-3-1. 室町幕府の実質的な崩壊
義輝の死により、室町幕府は事実上崩壊しました。
幕府の後継者として、義輝の弟・足利義昭(あしかが よしあき)が立てられますが、実質的には織田信長の傀儡となります。
項目 | 内容 |
---|---|
次の将軍 | 足利義昭(義輝の弟) |
実権を握る者 | 織田信長 |
幕府の状態 | 1573年に信長により滅亡 |
義輝の死後、足利将軍家はもはや自立できず、織田信長が京都を支配するようになりました。
4-3-2. 「剣豪将軍」としての評価
足利義輝の最期は、武士たちの間で**「最も戦国武将らしい将軍の死」として語り継がれました。
彼の戦いは、日本の剣術史においても重要な伝説となり、「剣豪将軍」として後世の武士たちに影響を与えました。**
評価 | 内容 |
---|---|
剣豪将軍 | 最後まで剣を振るい、多くの敵を倒す |
忠義の将軍 | 逃げずに将軍としての誇りを貫いた |
戦国武士の象徴 | 戦場で討ち死にする将軍として語り継がれる |
もし義輝が生き残り、将軍権力を回復できていたならば、戦国時代の歴史は大きく変わっていたかもしれません。
4-4. まとめ
足利義輝は、戦国時代の中で幕府の権威回復を目指しましたが、三好長慶や松永久秀の勢力に圧倒され、最終的には暗殺されるという悲劇的な運命をたどりました。
しかし、彼の最期の戦いは**「剣豪将軍」として後世に語り継がれ、日本の歴史に深く刻まれました。**
項目 | 内容 |
---|---|
事件名 | 永禄の変(1565年) |
敵 | 松永久秀・三好三人衆 |
剣豪将軍の逸話 | 戦いながら多数の敵を斬る |
死後の影響 | 室町幕府の権威が完全に失われる |
次の章では、足利義輝の死後、室町幕府がどのようにして滅亡へと向かったのかを詳しく解説します。
5. 足利義輝の死後と室町幕府の終焉
足利義輝(あしかが よしてる、1536年~1565年)は、戦国時代の室町幕府第13代将軍として幕府の権威回復を目指しましたが、松永久秀・三好三人衆により暗殺され、壮絶な最期を遂げました。
しかし、彼の死は室町幕府の崩壊を決定づける大きな転換点となり、幕府は戦国大名の権力争いに翻弄されながら消滅していきます。
本章では、足利義輝の死後、室町幕府がどのようにして滅亡へ向かったのか、義輝の弟・足利義昭の登場、織田信長との関係、そして室町幕府の終焉について詳しく解説します。
5-1. 義輝の死後の混乱
5-1-1. 権力の空白
1565年(永禄8年)、足利義輝が暗殺されたことで、室町幕府は完全に指導者を失い、京都の政治は混乱しました。
義輝を暗殺した松永久秀・三好三人衆は、自らの権力を維持しようとしましたが、すぐに内部抗争を始めてしまいます。
項目 | 内容 |
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義輝の死後の状況 | 幕府の実権が失われ、畿内が混乱 |
松永久秀・三好三人衆の関係 | 義輝を倒した後に権力争いを始める |
幕府の指導者 | 空白状態となる |
この混乱の中で、次の将軍候補として義輝の弟・足利義昭(あしかが よしあき)が浮上しました。
5-1-2. 足利義昭の登場
義輝の弟・足利義昭は、当時興福寺(奈良)に身を寄せていました。
彼は、自らを「正統な足利将軍家の後継者」として名乗り、将軍職に就くことを望みましたが、彼自身には軍事力がなかったため、支援者を必要としていました。
項目 | 内容 |
---|---|
足利義昭の立場 | 足利将軍家の生き残り |
拠点 | 奈良(興福寺) |
目的 | 室町幕府の復興と将軍就任 |
義昭は、室町幕府を再建するために、新たな支援者を探し求めました。
5-2. 足利義昭と織田信長
5-2-1. 織田信長を頼る
義昭は、将軍職を奪還するために、当時勢力を拡大していた織田信長(おだ のぶなが)に助けを求めました。
1568年(永禄11年)、信長は義昭を擁立し、軍を率いて京都に上洛しました。
項目 | 内容 |
---|---|
年 | 1568年 |
義昭の支援者 | 織田信長 |
目的 | 京都を制圧し、将軍職に就く |
この時、松永久秀や三好三人衆は織田軍の圧倒的な力に敗れ、義昭は京都に戻ることに成功しました。
5-2-2. 義昭が第15代将軍に就任
織田信長の支援を受けた義昭は、1568年に正式に室町幕府第15代将軍に就任しました。
これにより、一時的に幕府の権威は復活したかのように見えましたが、実際の政治の実権はすべて織田信長が握っていました。
項目 | 内容 |
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新将軍 | 足利義昭(第15代将軍) |
実権を持つ者 | 織田信長 |
幕府の実態 | 信長の傀儡政権 |
義昭は「将軍」としての地位を持っていましたが、実際には信長の支配下にあり、自立した政治を行うことはできませんでした。
5-3. 足利義昭と織田信長の対立
5-3-1. 義昭の独立を目指す
義昭は、当初は信長に従っていましたが、次第に**「信長の操り人形ではなく、幕府の権力を回復したい」**と考えるようになりました。
そこで、信長を排除するために、全国の戦国大名に対して「信長討伐のための挙兵」を呼びかけました。
項目 | 内容 |
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義昭の決意 | 織田信長の支配からの独立 |
支援を求めた大名 | 武田信玄・毛利元就・上杉謙信 など |
結果 | 織田信長との対立が深まる |
この動きは、のちに「信長包囲網」と呼ばれ、信長にとって大きな脅威となりました。
5-3-2. 織田信長による足利義昭の追放
1573年、信長は義昭の挙兵を鎮圧し、ついに京都から義昭を追放しました。
この結果、室町幕府は完全に崩壊し、将軍の存在意義が失われました。
項目 | 内容 |
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年 | 1573年 |
出来事 | 織田信長が義昭を京都から追放 |
室町幕府の状態 | 名目上は存続するが、実質的に滅亡 |
1573年をもって、室町幕府は約240年の歴史に幕を下ろし、日本は本格的な戦国時代から織田信長の天下統一へと向かいました。
5-4. 足利義輝の死後の影響
5-4-1. 幕府の消滅
足利義輝の死は、室町幕府の権威を完全に失わせました。
その後、義昭が将軍になりましたが、信長の傀儡に過ぎず、最終的には織田信長によって幕府は滅亡しました。
項目 | 内容 |
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義輝の死の影響 | 室町幕府の実権が完全に消滅 |
義昭の運命 | 信長により追放される(1573年) |
室町幕府の終焉 | 1573年、幕府が事実上滅亡 |
義輝の死後、日本は戦国時代から織田・豊臣・徳川の時代へと移行していきました。
5-5. まとめ
足利義輝の死後、室町幕府は次第に崩壊し、最終的に織田信長によって滅亡しました。
義輝の死は、日本の歴史において「将軍権力の終焉」を象徴する出来事であり、戦国時代を決定づける重要な転換点となりました。
項目 | 内容 |
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義昭の登場 | 室町幕府の最後の将軍 |
信長との関係 | 最初は協力するが、のちに対立 |
幕府の最期 | 1573年に織田信長により滅亡 |
次の時代、日本は織田信長・豊臣秀吉・徳川家康の天下統一へと進んでいきました。