徳川 秀忠
(とくがわ ひでただ)
1579-1632
享年54歳。
名称:長松、長麿、長丸、中納言、
征夷大将軍
居城:武蔵江戸城
■1579年
徳川家康の三男として浜松で
誕生。
母は、西郷の局(於愛の方)。
■1580年 1才
長兄・松平信康が自刃したため、
家康は秀忠を嫡子と定めて、土井
利勝、青山忠俊、内藤清成らを傅
役として附ける。
■1590年 11才
聚楽第にて元服。秀吉の偏諱を貰
い秀忠と名乗る。
■1593年 14才
江戸城留守役の重任に就く。
■1595年 16才
秀吉の命により浅井長政の三女・
於江与を正室に迎える。秀忠は側
室を一切持たなかったが、部屋方
に奉公していた於静に一男をもうけ
ており、その子は後に会津藩祖・保
科正之となる。
■1600年 21才
秀忠は、関ケ原合戦に際して、徳
川主力3万を率いて出陣。途中、西
軍に属した真田昌幸が守る信濃上
田城攻略に着手する。が、権謀術
数においては右に出るものなしとう
たわれた真田のお家芸に翻弄され
、上田城を攻略することができず関
ケ原合戦に遅参するという散々な
失態を披露する。しかし、家康はこ
の時点で、秀忠を後継者に立てる
ことを内外に示す。
■1605年 26才
秀忠は征夷大将軍に任ぜられ、徳
川幕府二代目将軍となる。
■1614年 35才
大坂冬の陣が起きると、関ケ原合
戦の失態を教訓とし、出陣命令が
出る前に江戸を出立。
■1616年 37才
父・家康が没する。
■1623年 44才
父・家康にならい、将軍職を子の家
光に譲り、自らは大御所となる。
■1632年 53才
秀忠は死の直前、家光を枕頭に招
き、法令の改修を遺言して没した。
享年54才。
律儀、誠実、温厚という性格を持っ
た二代目将軍は、乱世には凡人だ
が、治世には自らを律し、法制をし
く名君であった。