山本 勘助
やまもと かんすけ
1490?-1561?
享年72?歳。

名称:源助貞幸、晴幸、道鬼

■今川家家臣・山本彈正貞久の四
男として誕生。
三河牛窪の大名の養子になり、
大林勘助晴幸と改名する。

■1520年頃、養家の大林家を脱し
、入道し、道鬼と号して、諸国を
流浪する。
勘助は諸国の事情に通じ、文武
百般に通ず者といわれた。

■駿河の雄・今川家に寄宿してい
た折、武田信虎が甲斐から追放
され駿河に送迎されてくると今
川義元の密使として甲斐に赴き
、義元の書状を信玄に差し出した。

この時、逸材と見抜いた武田信玄
は勘助を足軽大将として召し抱え
たという。
諸国事情に通じた上、軍略の奇才
を発揮し、若き信玄の軍師として
活躍した。

■武田家屈指の軍師として活躍する
一方、勘助は高遠、小諸、海津な
ど数々の城を縄張り(設計)し、築
城の名手としても腕をならした。

■山本勘助の人物像は、身の丈は低
く、肌は色黒く、容貌魁偉にして左
眼は失明しており、全身に刀傷を
持ち、右足は不自由な上に手の
指も満足に動かせなかったとある。
そんな容姿をしていた勘助であっ
たが、一度、軍略や国政の議場で
は、一同をうならせるほど能弁で
あり、説得力のある智勇振りを見
せたという。

■1561年9月、上杉軍が信濃に四度
侵攻してくると上杉軍との決着を
つけるべく信玄は大軍を率いて
信濃に入る。

もちろん、信玄の軍師として勘助も
従軍した。決戦に臨んだ武田軍だ
ったが、妻女山に軍を布陣させた
まままったく動く気配を見せない上
杉軍のためにこう着状態となると
勘助は、武田軍軍師として戦況の
打開策としてきつつき戦法を編み
出し、信玄に提言。武田軍の挟み
撃ち作戦が決行された。

しかし、武田軍のこの動きを察知
した上杉謙信は、好敵手・信玄の
首級を上げる決戦を挑むべく、密
かに妻女山を降り、武田本隊を総
攻撃した。
勘助は自分が提言した戦術が失敗
に終ったことを知り、上杉軍に無謀
にも突撃し、討死した。
享年72?歳。