上杉 謙信
うえすぎ けんしん
1530-1578
享年49歳。

名称:虎千代、平三、景虎、政虎、
輝虎、宗心、従五位下彈正少弼
、関東管領、法印


居城:越後栃尾城→越後春日山城

■1530年
越後守護代・長尾為景の末子で、
母は長尾顕吉の娘・虎御前(青岩
院)である。幼名は、虎千代。

■1537年 7才
虎千代は、春日山麓の林泉寺に
預けられ、名僧・天室光育の下
で禅宗と文武の道を学ぶ。

■1544年 14才
虎千代は元服し、長尾家が平氏
の出であることから長尾平三景
虎と名乗り、実兄にして越後守
護代の長尾晴景の要請で、栃尾
城に入る。

本庄実乃や栖吉長尾氏らが景虎
の守る栃尾城を攻めたが、景虎
はこれをことごとく撃破。武勇で
知られた父・為景の再来と諸将を
恐れさせた。

■1545年 15才
越後守護上杉家の老臣・黒田秀
忠が謀反を起こし、居城の黒滝
城にこもった。
景虎は上杉一門の桃井氏らと
謀り、黒滝城を攻略。黒田秀忠
を越後より追放することに成功
する大きな軍功を挙げる。

■1546年 16才の時。
越後を追放された黒田秀忠が再
び、黒滝城を占拠。再度、上杉・
長尾氏に反旗をひるがえす。
景虎は、越後守護・上杉定実の
命を受け、黒滝城を猛攻。黒田
一族をことごとく討ち滅ぼす。

これを見た実兄・長尾晴景は、
景虎の存在が驚異とうつり、一
門の長尾政景、黒川清実らと共
に景虎討伐を決起。
この混乱を見た越後守護・上杉
定実は兄弟争乱の仲介に入り、
これを和睦させた。
景虎が兄・晴景の養子となるこ
とが和睦の条件となったことか
ら実質的に景虎の勝利となる。

■1548年 18才
景虎は春日山城に入り、守護代
を継ぎ、名実共に長尾家当主と
なる。

■1550年 20才の時。
越後守護・上杉定実が没し、嗣
子がないため、越後守護の上杉
家が断絶。
時の将軍・足利義輝は、越後守
護代である長尾景虎に越後守
護となることを認める書状を景
虎に送る。

■1551年 21才の時。
景虎に反抗を続ける魚沼の坂
戸城主・長尾政景を攻め、これ
を降らせ長尾一門の統一を果
たす。

■1552年 22才の時。
景虎は、朝廷より従五位下の官
位と彈正少弼の官名を与えら
れる。

■1553年 23才の時。
景虎は、関東に出陣し、北条氏
康と戦う。ついで、川中島で武
田信玄と戦い、9月には、京へ
上洛し、後奈良天皇から天盃
と御剣を賜り、「任国ならびに
隣国の敵を討伐せよ」との勅
命をこうむった。

■1555年 25才の時。
景虎は、川中島へ出陣し、3ヶ月
を越える信玄との戦いを行う。

■1556年 26才の時。
景虎の有力家臣団が領地争い
を繰り返し、越後国内が乱れる。
この状況に嫌気がさした景虎は
、隠退を決意し、名を宗心と称し
て、比叡山に入ろうとする。

景虎のこの行為を長尾政景らが
押しとどめ、家臣団に忠誠の連
署をしたため、謙信を説得。
再び、景虎に越後の国政をゆだ
ねる。

■1557年 27才の時。
武田軍が栃尾城に迫ったことを
受け、景虎は、越後の軍勢を率
いて善光寺に布陣。
武田軍とにらみ合いを続け、戦
う事無く両軍は軍勢を本国に引
き上げた一方、関東管領・上杉
憲政が北条氏に攻められ、越
後に逃れ、関東管領職、系図、
重宝なあどを景虎に譲ると宣言。

■1559年 29才の時。
景虎は、再度京へ入洛し、朝廷
と将軍から関東管領職を継ぐ許
しを得る。
この時、景虎は京に数ヶ月にも
わたって、滞在し、正親町天皇
に拝謁、天盃と御剣を賜って
いる。

■1560年 30才の時。
関東管領に就いた景虎は、関東
の逆賊・北条氏康を討伐すべく
関東に出陣。
上野国に越後勢を終結させ、関
東攻めに備える。

■1561年 31才の時。
関東入りした景虎は、関東全域
の諸将に関東管領の権限で号
令を発す。
景虎の下におよそ11万5千もの
大軍が集結。
この大軍をもって、景虎は北条
氏の居城・小田原城を包囲する。
1ヶ月半にも及ぶ攻城戦は、武
田信玄の信濃進撃により、中
断。景虎は余勢をかって、鎌倉
の鶴岡八幡宮で関東管領の就
任式を行い、上杉憲政から上杉
の姓と憲政の一字を賜って、上
杉政虎と名乗る。

鎌倉からの帰途、北条方の武蔵
国松山城を攻め、城主・上田朝
直とその一門を討ち滅ぼし、上
杉憲勝を松山城主に任じて帰路
に着く。
その後、時の将軍・足利義輝か
ら一字を賜って、上杉輝虎と改
名する。

■1561年 31才
武田氏の信濃国における軍事行
動に怒った輝虎は、会津の大名・
蘆名盛氏、羽前の大名・大宝寺
義増らに援軍を要請し、1万3千
とも、1万8千といわれる大軍を
率いて、信濃に進軍。
信濃国妻女山(さいじょさん)に
布陣する。

信玄もこれに応え、1万7千の大
軍を率いて信濃国海津城に入
る。両軍はにらみ合いのままこ
う着状態となる。
同年9月10日信玄は、軍師・山
本勘助が考案した「きつつき戦
法」を採用。妻女山にこもる上杉
軍を挟み撃ちにする作戦に出た。

しかし、輝虎は武田軍がいる海
津城から立ち上る米を炊く煙の
数がいつもより多いのを見て武
田軍が今夜動くことを見抜く。
輝虎は、静かに妻女山を下り、
夜陰に紛れて、武田軍本隊が
布陣する八幡原に兵を動かす。
武田軍は1万7千のうち1万2千
を別働隊として妻女山に向か
わせ、信玄率いる本隊は5千に
満たない軍勢で八幡原に布陣
した。

輝虎は、上杉軍1万8千を車懸り
という戦法で武田本隊に斬り込
ませた。
車懸り(くるまがかり)とは、車輪
のように部隊を展開し、敵の部
隊に斬りかかる。
敵とぶつかる部隊が疲れたら、
車輪が回転するようにして別の
部隊が敵に斬り込むという戦法
で敵部隊を徐々に切り崩していく。

信玄は、敵に崩された部隊に補
填する部隊を向かわせるなど、
巧みな采配で上杉軍の猛攻を
しのぐ。
武田軍の懸命の防戦によって、
妻女山にて空振りに終わった
武田別働隊が八幡原に到着。
これを見た信玄は防戦一方から
一転。別働隊とともに上杉軍を
挟み撃ちにする。
この武田軍の猛反撃にあった
謙信は信玄をあと一歩まで追
い詰めながら討ち取れず、苦渋
を飲んで上杉軍を撤退させた。

この戦いで両軍あわせて、1万
人の死傷者が出たとされている。
武田軍では、信玄の実弟・武田
信繁、軍師・山本勘助らが討死
した。
この川中島の激戦の知らせを受
けた北条氏康は、この機会を逃
さず、関東にある上杉方の諸城
を攻撃。
この報告を受けた輝虎は、休む
暇もなく上野国厩橋城に入り、
北条氏の牽制に及んだ。

■1562年 32才の時。
北条方の館林城を攻め、城主・
赤井照景を討ち滅ぼす。

■1563年 33才の時。
北条氏康は5万の大軍を擁して
、上杉方の武蔵国松山城を攻撃。
城主・上杉憲勝はよく守ったが、
謙信の援軍は間に合わず、落城
する。

■1564年 34才の時。
謙信は、常陸国小田氏治の不義
に怒り、佐竹義昭と共に小田城
を攻め、2000人を討ち取った。

ついで、唐沢城の佐野昌綱を攻
め、これを降伏させる。
信玄は謙信の関東における軍事
行動を見て、信濃に進軍。謙信の
本国、越後国に迫った。
謙信は、弥彦神社に信玄退治の
願文を捧げ、信濃の川中島へ出
陣。
川中島を挟み武田・上杉の両軍
はにらみ合いとなるが、両軍とも
前の激戦の痛手を忘れず。
戦わずに両軍とも兵を引き上げ
ている。

■1572年 42才の時。
武田信玄が西進すると謙信は、
越中富山城を攻略。
一向宗徒と戦う。

■1573年 43才の時。
宿敵・武田信玄が没した報を聞
いた謙信はひどく悲しんだという。
越中に軍勢を進ませ、越中を
平定。

■1574年 44才の時。
謙信は剃髪し、法体となる。

■1576年 46才の時。
謙信は越中へ出陣し、戸加尾城
、増山城、湯山城を攻略。そのま
ま、能登へ侵攻。
能登国の大半を平定し、七尾城
を包囲する。

■1577年 47才の時。
謙信は、能登七尾城を包囲して
いたが、織田軍5万が能登に侵
攻してきた報を受け、これを迎え
撃つ。
柴田勝家を総大将とする織田軍
は、手取川に布陣し、謙信を待
ち受ける。
そこへ七尾城落城の知らせを受
けた織田軍は撤退を開始。それ
を見た謙信は3万5千の大軍を率
いてこれを追撃。
上杉軍は、雨で増水した手取川
を渡れずにいる織田軍を背後か
ら襲撃。
1000人以上を討ち取られた織田
軍は総崩れとなる。
謙信は、この戦いで側近の者に
「存外に弱い。これなら自分が天
下統一することも難しくない」と語
ったという。
また京都でも、「上杉の逢うては織
田も手取川はねる謙信逃げる信
長」という歌が流行ったという。

■1578年 48才の時。
謙信は、織田軍追撃をいったん
中止し、越後に引き上げる。関東
を平定した後、京へ上洛すること
を計画。
同年3月9日
関東出陣を準備するよう家臣に
命令した謙信は、春日山城で
就寝。
翌日、なかなか寝床から出てこ
ない謙信を見て、家臣が起こし
にいくと謙信は脳溢血の為、危
篤状態であった。
2日後、回復する事無く、諸将に
「軍神」と恐れられた名将・上杉
謙信、没す。
享年49才。

倒れる直前に作った辞世の句
は、「四十九年一睡夢 一期栄華
一盃酒」であった。

第四次川中島の戦いは、大激戦となった。
信玄めがけて、謙信が単騎決戦を挑んだシーン。
白馬にまたがる謙信が大太刀を振り上げ信玄に
斬りかかってる。
鉄製の軍配で見事、謙信の会心の一撃を跳ね返す信玄
戦国の虎と龍の一騎打ちは、戦国乱世のクライマックスにふさわしいシーン。