上杉 景勝
うえすぎ かげかつ
1555-1623
享年69歳。

名称:卯松、喜平太、顕景、参議、
従三位、中納言


居城:越後春日山城→会津若山城→
出羽米沢城

■長尾政景の次男として誕生。

■1564年、景勝が9歳と時、父・政景が
没すると叔父である上杉謙信の庇
護を受け、春日山城に移り住む。

■1575年、景勝が20歳の時、叔父・謙
信の養子となり、上杉景勝を名乗る。

■1578年、景勝が23歳の時、謙信が没
すると謙信の遺言と称して景勝は春
日山城本丸を抑え、同じく謙信の養
子となっていた上杉景虎と家督を争
った。
御館を拠点とする景虎との家督争い
は、御館の乱といわれ、景勝は甲斐
の武田勝頼の後援や謙信の有力家
臣を従え、北条氏の後援を得ていた
景虎を1579年に討ち滅ぼした。

■上杉家家督を継いだ景勝は、武田家
と親密な関係を保ち、関東の北条氏
と対立した。
1579年、家督を継いだ景勝は武田
信玄の五女・菊姫(大儀院)を娶る。

■1580年8月には、景勝は重臣・直江
兼続の活躍で、上越、中越の諸豪族
を従えることに成功し、謙信とは別種
の組織体制を整えた。

■同盟者・武田勝頼が織田軍に攻め滅
ぼされると越後は織田軍侵攻の危機
にさらされる。
しかし、本能寺の変で危機を脱すと
景勝は新たな秀吉政権と友好を結び、
1586年秀吉の厚遇を受けつつ秀吉に
臣従する。
後顧の憂いを絶った景勝は、ほどな
く越後統一を果たし、ついで佐渡を支
配する本間氏をも討って、謙信以来の
宿願を成就させた。

■豊臣政権では、柱石の存在として小
田原の役、文禄の役に参軍している。

■1598年、秀吉の命で国替えし、会津
120万石の太守になり、国内で三番目
の石高を保有した。

■秀吉が没すと、大坂に上り、五大老に
列した。

■1600年、徳川家康から謀反の嫌疑を
受ける。
この嫌疑に毅然とした態度をとった
景勝に対して、家康を中心とする豊
臣家臣団は討伐隊を結成。
大坂から討伐の大軍が押し寄せる
と景勝は武装を固め、東国の最上、
伊達の軍と戦う。
長期戦になると誰しもが思う中、関
ケ原の戦いが1日で終ると景勝は孤
立することとなる。

■1601年、四面楚歌のまま戦いつづけ
ることが困難と判断した景勝は、つい
に家康に降伏。
取り潰しは免れ、出羽米沢30万石に
削封となる。
会津120万石から米沢30万石に石
高は減ったが、景勝は君臣の関係を
守り、誰一人として上杉家から追放
する事無く、召し抱えたまま移封した。
荒地の米沢をよく開拓し、幕末まで
続く米沢藩の礎を築いた。
1623年、景勝は米沢で没した。
享年69歳。

上杉輝虎(謙信)書状 喜平次(景勝)宛の手紙
景勝の陣中見舞いに対する礼状を謙信がしたためたもの。
追伸にて景勝の字が上達していることを褒め、習字の手本を
送ると記している。謙信の優しい一面をうかがい知ることができる。