あけち ひでみつ
1557-1582
享年26歳。


名称:弥平次、光春、秀俊、光遠
居城:丹波福知山城


■明智光秀に由縁のある三宅出雲の子と
  いわれているが出自は不明。
  光秀の娘・秀林院を娶ったことから
  明智姓を名乗った。

■明智家の婿養子という形で光秀に仕え
  丹波経略などに携わった。

■1581年、丹波攻略に功績を挙げて、
  丹波福知山城代を命ぜられる。

■1582年、本能寺の変では本能寺襲撃の
  指揮官を務め、続く安土城占領でも活
  躍。安土城の守将となる。
  山崎の戦いで光秀が敗走中に横死す
  ると秀満は坂本城に向かい光秀の
  一族郎党と合流した。
  すでに坂本城は堀秀政の軍勢に包囲
  されていたが、秀満はその囲いを突破
  し城に入城。
  もはや活路を見出せないと悟ると秀満
  は”天下の名物は壊すべきでない”と
  いい、光秀所蔵の刀剣などの名品を
  包囲軍に渡した。
  明智の天下に浸る暇もなく、秀満は
  一族郎党とともに自決。
  火薬に火をつけて、天守もろとも爆死
  したという。
  享年26歳。


明智光秀の婿養子として、明智軍の一翼を担った。
義勇に秀でた将であったが、時運なく、活躍の機会を逸して、
無念の自害で果てた。