あけち みつひで
1528-1582
享年55歳。


名称:十兵衛尉、惟任(これとう)光秀、
    日向守
居城:近江坂本城→丹波亀山城


■美濃守護土岐家の一族・明智光綱
  の子とされるが、定かではない。
  また、斎藤道三の正室・小見の方
  の甥ともいわれるが確証はない。

■諸国を流浪し、鉄砲術を身につけて
  朝倉氏に仕官している。

■越前に逃亡して、朝倉義景を頼って
  いた足利義昭と親交を深める。
  朝倉義景に上洛する野望がない
  事を知った義昭は、尾張美濃と領土
  拡張をした織田氏に目をつける。
  義昭から光秀に織田氏への周旋を
  依頼され、これを成功させる。
  義昭とともに織田信長の下へ赴き
  その庇護を受ける。
  光秀は織田家の客将として厚遇され
  信長から義昭擁護を評価され1万石
  を拝領した。

■信長の上洛戦に従った光秀は、その
  文官としての能力を認められ、京都
  行政に携わることとなる。

■その後、光秀は京都にはびこる三好
  三人衆排除に活躍し、続けて若狭
  平定戦にも参軍して武官としての
  能力も発揮した。
  これにより1571年、近江滋賀郡5万
  石を与えられ、光秀はそこに坂本城
  を築いた。
  織田家の客将からいつのまにか、信
  長の重臣として活躍するようになり、
  織田家臣団では一番の出世頭となっ
  たのである。

■以後、越前、河内などへの織田軍侵
  攻戦に参軍し、大いに活躍。智勇兼
  備の武将として織田家随一の名将と
  なった。

■1575年6月、信長の命を受け、光秀
  は丹波、丹後攻略部隊の総指揮官
  となる。
  地理的に難攻を極める丹波、丹後
  を平定するのはいかに智勇兼備の
  将である光秀でも苦戦することとな
  る。
  特に丹波、丹後の大半を支配下に
  置く波多野秀治らの結束は固く、な
  かなか調略もおぼつかないもので
  あった。
  この困難な任務達成に期待をか
  ける信長は、同年7月に朝廷に奏請
  して、九州の名族・惟任(これとう)の
  姓と従五位下日向守の官位を光秀
  に授けている。
  惟任の姓を光秀に名乗らせたのは
  、近い将来に九州平定戦で光秀が
  活躍することを望んでの処置といわ
  れている。

■信長からの絶大な期待を負った光
  秀は、1579年6月に丹波八上城主
  ・波多野秀治を降伏させ、同年8月
  までにほぼ丹波・丹後両国を平定
  するに至った。

  信長の期待に見事答えた光秀は
  、織田家一の武将と褒め称えられ
  た。
  光秀の活躍はこの丹波・丹後両国
  平定戦だけに留まらず、この平定
  戦の最中にも信長の命を受けて、
  石山本願寺攻め、紀州雑賀攻め、
  松永久秀・久通父子の反乱軍鎮圧
  、荒木村重の反乱軍鎮圧など数々
  の合戦に参軍し活躍している。

■1580年、これら数々の武功によっ
  て、光秀は丹波一国を拝領し、亀山
  城を居城とした。亀山城を居城とし
  たことは光秀が中国地方平定戦の
  総大将を担うことを想定して近江坂
  本城から移ってきたと見ることが出
  来る。

■1581年、光秀は信長の京都馬揃え
  で、奉行職を務め、栄華の絶頂期を
  迎える。

■1582年、甲斐武田氏攻めに参軍し
  た光秀であったが、この頃から怠慢
  が目立つようになり、信長から怒りを
  買うようになる。

  武田氏滅亡後、信長は安土城に盟
  友・徳川家康を招くと光秀はその接
  待役を命じられた。
  しかし、この接待役に光秀は数々の
  失態を犯してしまう。酒宴の席に出
  された料理が腐っていたことや下人
  が安土城の堀にごみを投げ入れた
  ため悪臭が立ち込め、それを家康
  に指摘されるなど失態を重ね、信長
  から不評をかっている。

■備中高松城を水攻めにしていた羽柴
  秀吉から毛利輝元が大軍を擁して、
  備中に出張ってきたとの知らせを受
  けた信長は光秀を接待の職務から外
  し、秀吉への援軍の総大将を務める
  ように命ずる。

  援軍には光秀の他に畿内にいる池
  田恒興、高山右近らが加わる手はず
  であった。
  援軍の総大将を務めるに際して、
  光秀は信長より、石見・出雲を切り
  取り次第でその領土を与えることを
  告げられ、その代わりとして丹波、
  近江坂本の領地を召し上げが決ま
  った。苦労して得た所領を没収され
  た上、切り取り次第とは言え、いま
  だ毛利氏の領土である石見・出雲
  を領土にするとは、飢え死に覚悟を
  言い渡されたに等しいものとなった。

  信長への反論もかなわず、中国出
  兵の準備のため、急きょ丹波・亀山
  城へ立ち戻った光秀であったが、毛
  利氏を打倒しなければ、生きる道が
  ないことに苦悩するばかりであった。

■本能寺に入った信長は、公家たちを
  招き、信長自身の天皇継承のことや
  天皇制の廃止について議論を戦わ
  せていた。
  学者肌の光秀としては、この信長の
  変異な行動を朝廷から何らかの形
  で伝わっていた可能性が高く、朝廷
  に対し信仰厚い光秀としては複雑な
  心境であったことは間違いない。

■1582年5月26日、愛宕権現(あたご
  ごんげん)に参籠した光秀は、おみ
  くじを三度引き直したという。
  この時、光秀の心内では、主君に
  して暴挙に走る信長にどう対処す
  べきか考えあぐねていた感がある。
  同年同月28日、光秀は愛宕権現
  の西ノ坊に里村紹巴をはじめとす
  る著名な連歌師を招いて、百韻の
  連歌を興行した。
  中国出陣の準備中という慌しい中
  で風流な催しをやるものだと感じら
  れるがこの時代の習わしの一つで
  連歌を興行し合戦の勝利を祈願す
  るのであった。
  この時、光秀の発句「ときは今 あ
  めが下しる 五月かな」は、信長へ
  の叛意を現したものといわれている。
  即ち、土岐氏の一族である光秀が
  天下を支配するという意味を内に
  込めた句であるといわれている。

■1582年6月1日、1万3000の大軍を
  率いた光秀は居城・亀山城を出発。
  摂津から中国路へ向かう道筋をと
  るはずであったが、中国方面と京
  都方面への岐路に差し掛かると、
  光秀は有名な”敵は本能寺にあり”
  と発して一路京都へ続くを進んだ。

  200人余りの近習だけを連れて本
  能寺に入っていた信長は光秀の
  奇襲を受けると”是非もなし”と述
  べて、奮戦。
  近習の一人が女に紛れて女装して
  逃げれば、助かるかもしれないと信
  長に進言したが、「相手は光秀であ
  る。手抜かりはあるまい」と述べて
  取り合わなかったという。

  実際、二重三重に本能寺を取り囲
  んだ光秀軍には蟻の這い出る隙間
  もない周到な布陣を布いていた。
  光秀軍の攻撃を喰らい、ほどなくし
  て本能寺から火の手が上がり、炎
  上。
  焼け跡から信長の遺体を見出せな
  かったという。

■本能寺で暴君・信長を葬り去った後
  、光秀はそのせがれ・織田信忠が
  こもる二条城を一挙に攻めた。
  2000余りの手勢を率いていた信忠
  であったが、智勇に長け、戦術の
  隅々まで知り尽くした光秀の前に
  はかなうはずもなく、奮戦虚しく、
  華々しく散った。

  信長の流れを汲むものを滅するこ
  とに成功した光秀であったが、平
  穏を取り戻していた畿内の諸将か
  らは共感を得る事無く、孤立するこ
  とになる。

  味方を得ることができずに焦る中
  、秀吉が中国より疾風迅雷の如く
  、瞬く間に帰還。
  6万以上の大軍を率いて信長の
  弔い合戦を仕掛けてきた。
  これを天王山近くで迎え撃った光
  秀は、生涯最後の戦いとなる山崎
  合戦の死闘を繰り広げるのであっ
  た。
  秀吉軍には池田恒興、丹羽長秀、
  織田信孝ら諸将が参軍しており、
  弔い合戦ということもあって、軍の
  士気はすこぶる高い。

  光秀軍は1万3000と劣勢であった
  が、戦術に長ける光秀は戦略上
  有利に展開すべく、天王山の占領
  をもくろんだが、同じく戦略上の拠
  点として天王山を抑えるべく大軍
  を差し向けてきた。
  戦略上の要所・天王山争奪戦が
  ここに始まったが、結局兵力が勝
  る秀吉軍が天王山を占拠すること
  となった。
  これによって、地理的有利を勝ち
  得なかった光秀の末路は決まった
  ことになる。
  最後の奮戦を見せた光秀も力尽
  き、敗退。光秀は敗走し、小栗栖(
  おぐるす)に差し掛かった時、土民
  に槍で刺され、
  横死した。享年55歳。
  後世の人々は、この光秀の短命
  な政権を”三日天下”と呼んだ。
  日本統一の象徴とされる組織・
  朝廷とその天皇制の危機を救っ
  た形となった
  光秀の謀叛は、その意義深さを
  省みられることなく、反逆者のそ
  しりを受けるに留まったのである。