あさくら そうてき 1477-1555 享年79歳。 名称:小太郎、小次郎、教景、金吾、 太郎左衛門尉、昨雨軒宗滴 ■朝倉家四代目当主・朝倉孝景の末子として、誕生。 若くして、仏門に入り、越前国本郷竜興寺に入り、宗滴と号した。 ■仏門に帰依していた宗滴ではあったが、世は戦国時代。大名一門に生まれた以上は、合戦に出陣することは免れない。 宗滴も生涯において、12度の合戦を経験している。しかも、その合戦において、大いに活躍を見せ、戦国時代中期の人物としては、名将に分類することができる大人物であった。 ■1506年、加賀において、一向一揆が起こると宗滴は軍勢を率いて、これを迎え撃った。 一揆勢は越前へと侵攻してきたが、宗滴は、これを九頭竜川において迎撃し、大勝利をおさめている。 ■1525年、近江の浅井氏が伊賀に勢力を張る、六角氏に攻め込まれ、窮地に追い込まれると浅井氏は北陸の雄・朝倉氏に救援を求めていた。 これに対し、朝倉氏は名将・宗滴を派遣。見事、宗滴はこの大任を果たし、浅井氏を救っている。 これ以後、浅井氏と朝倉氏は同盟関係を結ぶこととなった。 ■1527年、宗滴は京都へと攻め込み、細川晴元の軍勢を打ち破り、北陸勢の力を西国の諸将に見せつけた。 ■1544年には、美濃の斎藤道三が尾張の織田信秀に攻め込まれ、朝倉氏に救援を求めてきた。 朝倉氏は、老齢ながら、名将の宗滴を派遣。見事、救援の大任を果たし、朝倉氏の権勢を諸大名に見せつけた。 ■1555年、上杉謙信が川中島にて武田信玄の死闘を演じていたとき、謙信の要請を受けた朝倉氏は、79歳の老骨・宗滴を加賀へと派遣した。 加賀にて、宗滴は大聖寺城などを攻略。数千人規模の一向一揆勢を打ち破る成果を上げた。 しかし、老骨の身ながら無理がたたったのか、病を得て、越前へと帰国。 宗滴は、その年のうちに病没した。 享年79歳。 ■のちに宗滴の家臣であった荻原宗俊が宗滴が生前語っていた訓戒を書きとめ、まとめ上げた。 宗滴の遺訓である「宗滴夜話」がそれである。この書は、今日、戦国時代を知るのに貴重な資料となっている。 |
朝倉 宗滴
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