乃美 宗勝
のみ むねかつ
1527-1592
享年66歳。
■万菊丸、新四郎、浦兵部、助四郎、備前守、兵部丞
■安芸国竹原にある賀義城主・乃美賢勝
の子。
乃美氏は小早川家家臣として活躍
した。
元就の外交戦術で、元就の三男・隆景
が小早川家を継ぐと、宗勝は隆景の側
近として活躍。
特に小早川水軍を統率し、その指揮官
を務めた。
■1555年、陶晴賢との戦いに備えて、隆
景の命を受けた宗勝は、単身、村上海
賊軍の頭領・村上武吉に会い、毛利氏
へ味方するよう説得。
宗勝の外交官の手腕が発揮され、村
上水軍が毛利氏に属した。
これにより、毛利軍は厳島の戦いで、
水軍を駆使し、勝利を飾った。
小早川水軍を率いて活躍する。
輝かしい軍功を飾った、宗勝であった
が、厳島合戦の前に毛利氏、陶氏のど
ちらに属すべきか乃美家中で騒動が起
こっていた。
この毛利家に徹頭徹尾、属することが
できない乃美家は、後に毛利氏に入っ
てきた村上氏、来島氏の水軍勢力の前
に小早川水軍の権限を取られてし
まう。
忠誠心がいまいちはっきりしなかった
ために宗勝は、小早川家の水軍総帥と
して誇った乃美家の勢力を後退させて
しまう。
1576年天正4年5月、宗勝は、毛利氏と同盟関係にあった播磨国英賀の領主・三木通秋の所領へ援軍として向かう。三木軍と合流した宗勝は、手勢5千を率いて、播磨国衆で織田方へ寝返った小寺軍と交戦する。小寺軍を率いた小寺孝高は巧みな軍さばきを成し、毛利・三木連合軍は敗退する(英賀合戦)。
同年9月、宗勝は第一次木津川口の戦いで総大将を勤め、織田軍の九鬼嘉隆が率いる水軍と対戦した。焙烙(ほうらく/ほうろく※土鍋を用いた爆弾)を多用し、九鬼水軍を壊滅させる大勝利を飾った。
石山本願寺への兵糧を無事、送り届ける任を果たした。
1578年天正6年、第二次木津川口の戦いが起こる。この戦いでは、九鬼水軍は、新鋭の鉄甲船を使用し、焙烙の攻撃を防ぎ、毛利水軍を破った。
1579年天正7年、毛利方に与する播磨の別所長治の三木城へ無事に水路、兵糧搬入を成功させている。
1592年天正20年、豊臣秀吉の文禄の役が起こると、宗勝も朝鮮へと出陣した。
対大友戦に対して、抜群の軍功を上げている。敵将・立花道雪(戸次鑑連)から高く評されている。
また、生涯を通じても、毛利元就、小早川隆景、毛利輝元、豊臣秀吉ら主君筋から合わせて15通の戦功への感状を受けている。