赤川 元保
あかがわ もとやす
1520?-1567
名称:元助、右京亮
■1550年、毛利氏組織内で、五奉行
制が布かれるとその奉行の一人
となる。
毛利隆元から信任を得て、隆元の
側近として活躍したが、元就から
は快く思われていなかった。
■1563年8月、出雲遠征に赴く途中
の隆元が和智誠春(わちまさは
る)の饗応を受けた席で突如、
急死した。
一説に酒宴の席に尼子氏の間者
が潜んでいて、その者の手にかか
って、隆元は死んだといわれる。
隆元側近としてこのとき、宴会の
警備に当たっていた元保は後に
この事件の責任を問われ、毛利組
織から外れることとなる。
1567年3月、元就の命により、謀
殺されたとも、追い詰められた
元保自ら自刃して果てたとも
伝わる。
死後、元保は、実際には和智誠春
の饗応を受けることを反対して
いたと判明し、元就は深く後悔した。
元保の兄・赤川就秀の次男・元通
と甥の元之に赤川家を再興させている。