しまづ たかひさ
1514-1571
享年58歳。


名称:虎寿丸、又三郎、三郎左衛門尉、
    修理大夫陸奥守、
    薩摩大隈日向守護、従五位下
居城:薩摩伊作城→薩摩宇治城→
    薩摩内城


■島津忠良の長男として誕生。
  父の跡目を継ぎ、伊作島津家十代目
  当主となる。

■貴久13歳にして、薩摩守護である相州
  島津家当主・島津勝久の養子となる。
  伊作島津家当主とともに薩摩守護を受
  け継ぐ相州島津家も継いだ貴久は、父
  ・忠良とともに田布施城に入り、養父・
  島津勝久に反抗する実弟・島津実久の
  抑えとなる。

  島津実久は、薩州島津家に養子として
  入り、薩摩守護を狙い、相州島津家の
  乗っ取りを企てた。
  その危機を感じた薩摩守護で相州島
  津家当主・島津勝久は、この反抗勢力
  に対抗すべく、伊作島津家の島津忠良
  ・貴久父子を頼りとした。

  しかし、実兄よりも一枚上手の実久は、
  相州島津家の家臣を抱き込み、兄・勝
  久の家臣たちを利用して、邪魔な伊作
  島津家の排除を謀った。

  勝久も家臣の言われるままに自分の
  味方として家中に招いたはずの伊作島
  津家を排除すべく、軍を出し、忠良・貴
  久父子の本拠・清水城を占拠した。

  相州島津家を救援するべく尽力してい
  た伊作島津家は、その救助対象から反
  撃を受けるという思わぬ展開に困惑
  した。
  薩摩全土を統括するはずの薩摩守護
  となっていた島津貴久であったが、基
  盤勢力が弱いため、一族や土豪たちか
  ら手酷い反抗にあい苦慮してしまう。

  そのため、貴久は父・忠良とともに基
  盤勢力を固めるべく薩摩半島中部の平
  定をまず目指した。

■当初、薩州島津家の島津実久の方が優
  勢を誇っていたが、貴久は徐々に勢力
  拡大戦を展開し、1533年に日置郡の
  南郷城を陥落させ、1536年には伊集
  院一宇治城を陥落させた。

  続いて、1539年紫原の戦いで島津実
  久を打ち破り、島津実久を出水に封じ
  込めた。

  こうして、薩摩一国の覇権争いで勝利
  を重ねた貴久が実権を握ることとなり、
  この動きに応じて南日向の都城城主・
  北郷忠相や飫肥の島津忠広が帰順し
  、貴久の勢力は強化された。

■1550年に入ると、貴久は薩摩一国平定
  を目指し、拠点を清水城から新たに築
  いた内城に移し、軍略的な利点を生か
  して平定戦に躍進した。

  本貫地を回復すべく、拠点から北と西
  に向って領土回復戦に挑んだ。

  この時点で貴久は、薩摩国の3分の
  1程度しか、領有してはおらず、まだま
  だ、九州地方で一大勢力を張った存在
  ではなかった。

  大隈の西の端を領する蒲生氏を討ち
  滅ぼすのに三年の月日を費やすなど
  侵攻戦はなかなかはかどらなかった。
  岩剣城の攻略戦で貴久に内応すると
  見せかけた敵に逆襲され、危うく討た
  れるところであったなど攻略戦は困難
  を極めた。

■1566年、貴久は長男の義久に家督を譲
  り隠居の身となったが、薩摩一国平定
  の夢を諦めきれず、その後も義久とと
  もに戦場を駆け巡った。

  貴久が隠居した頃の島津氏の勢力は、
  薩摩中南郡と大隈、日向の一部に留ま
  り、まだまだ薩摩一国支配には至らな
  かった。

■1569年、島津氏は菱刈氏を降伏させ、
  ほぼ薩摩一国支配に成功する。
  この島津氏の動きに残りの薩摩土豪衆
  も島津氏に戦わずして帰順した。

  こうして、貴久は北薩摩の土豪の降伏
  により、念願の薩摩一国平定という夢
  の実現を見たのである。
  薩摩の弱小勢力に過ぎなかった島津
  氏を貴久は、薩摩一国支配という一大
  勢力に築き上げ、その勢力基盤を磐石
  たらしめたのである。

  初陣以来、休む暇のない軍略に次ぐ軍
  略を行ってきた貴久は、疲弊した体を
  休める暇もなく、1571年没した。
  享年58歳。

  南蛮渡来の新兵器・火縄銃を積極的に
  戦場に取り入れ、戦果を挙げる目ざと
  さを現す一方、1543年に来日したイエ
  ズス会宣教師・フランシスコ・ザビエル
  と最初に会見した戦国大名となるなど
  戦国乱世に吹き荒れた南蛮旋風を敏
  感に感じ取った開眼の人でもあった。