おおとも そうりん
1530-1587
享年58歳。


名称:塩法師丸、五郎、新太郎、義鎮、
    宗滴、上左衛門督、
    ドン・フランシスコ
居城:豊後大友館代城→豊後臼杵城


■大友義鑑の嫡男として誕生。
  若き宗麟は、傍若無人な振る舞いが多
  く、粗暴な性格であったため、父・義鑑
  から敬遠され、廃嫡にする動きがあ
  った。

  異母弟の塩市丸に家督が譲られる気
  運が大友家中で高まる中、義鑑の意を
  受けた重臣・入田親誠実は、宗麟の家
  臣・斉藤播磨守、小佐井大和守、津久
  見美作守、田口蔵人佐の四人が登城
  するところを襲撃し、斉藤播磨守、小佐
  井大和守の二人を惨殺した。

  危機を脱した津久見美作守と田口蔵人
  佐は、憤激して、すぐさまこの襲撃の首
  謀者と思われた大友家当主・義鑑を襲
  うべく大友館に乗り込んだ。

  義鑑は大友館の二階に家族と一緒に
  住んでいたため、この襲撃の混乱を”
  二階崩れの変”と呼ぶ。
  津久見美作守と田口蔵人佐の二人は
  、大友館に乗り込み、二階に居た大友
  義鑑を襲撃し、壮絶な斬り合いの末、
  義鑑は、重傷。内室と息女二人、塩市
  丸は惨殺された。

  大友義鑑らが斬り殺されたすぐ後、こ
  の騒ぎを聞きつけてきた義鑑の近習た
  ちによって、津久見美作守と田口蔵人
  佐は斬り殺された。

  一通りの混乱が終った頃、湯治に出か
  けていた宗麟の下にも知らせが届き、
  宗麟はすぐさま府中の大友館へと向
  った。
  事態収拾の陣頭指揮を取った宗麟は、
  関係者の氏族を全て処断し、遺恨のな
  いように取り計らった。

  この俊敏な事態収拾劇を見た義鑑は、
  瀕死の床にあったが、宗麟の手腕を認
  め大友家の家督を譲ることを承認
  した。
  1550年2月21日、北九州の英雄・大友
  宗麟は、大友氏の全権を掌握した。

■宗麟が大友家の家督を継いだ頃、大友
  家中では、豊州三老をはじめとする勇
  将が数多く輩出されており、九州一勢
  力が強かった。

  豊州三老は、別次鑑連(べっきあきつ
  ら)[※のちの立花道雪]・臼杵鑑速(う
  すきあきすみ)・吉弘鑑理(よしひろあ
  きただ)で構成され、いずれも有能な武
  将であった。

  これら武勇にひいでた武将たちを数多
  く抱えていた宗麟は、外交と策謀に専
  念でき、当時としては九州最強の軍団
  を組織した。

  時運も宗麟に味方し、大友氏と勢力を
  争った中国地方の大内氏が家臣の陶
  晴賢に謀叛され、滅亡したことで、大友
  氏の本国豊後が侵攻されなくなったこ
  とで安心して国内の統治を行うことが
  できた。
  陶氏も毛利氏に滅亡するなどして、中
  国地方での勢力争いが目まぐるしく変
  わったことで九州へ侵攻される懸念が
  薄らいだ。

  宗麟はこの期間に豊後国内の反目す
  る国人領主を討滅し、支配基盤を万全
  なものとした。

■南蛮貿易を熱心に推進し、それに伴う
  キリスト教の布教を許した。
  貿易で莫大な利益を得た宗麟であった
  が、その後、キリスト教に傾倒し、布教
  拡大を支援した。
  反面で領内の寺社仏閣を排除し、その
  所有していた所領を没収するなど領土
  の秩序を乱すなどの失策も犯した。

  一族の大友親貞を総大将とする肥前
  攻めが大失敗に終ると宗麟は、肥前の
  龍造寺氏と和議を結び、大友氏に付属
  させることに成功。

  豊後、豊前、筑後、筑前、肥前、肥後の
  六ヶ国にまたがる広大な勢力範囲を確
  保し、それと同時に六ヶ国の守護を兼
  任するなどして九州一の勢力を誇っ
  た。

■宗麟は九州の残りの土地である日向、
  大隈、薩摩を支配する島津氏と決戦を
  挑む機会をうかがった。
  その機会はすぐにやってきた。日向の
  伊東義祐が島津氏の攻撃に敗退し、
  宗麟の下へ落ち延びてきた。

  伊東氏から大友氏へ旧領回復に協力
  してくれるよう要請がくると宗麟は、快く
  引き受け、日向出兵の大義名分を得
  た。
  1578年、宗麟は5万の大軍を率いて日
  向に向けて南下。
  対する島津軍も日向に4万の大軍を派
  兵し、九州分け目の耳川合戦が勃発
  した。
  宗麟は日向国内に入ると行く先々で寺
  社仏閣を破壊し、キリスト教の布教に
  力を入れた。

  島津軍との合戦が始まると宗麟は、戦
  場から200キロも離れた場所で勝利
  のための祈りを捧げるというちぐはぐな
  行動を取った。
  総大将の戦争放棄のような行動は前
  線の兵士の士気を低下させた。
  統制が取れない大友軍は、島津軍の
  戦術にはまり、大混乱のまま崩壊した。

  この九州分け目の決戦に無残な敗退
  をした大友氏は次第に勢力を低下させ
  ていった。

■島津氏に大敗を喫した大友氏の勢力が
  低下したことを見た肥前の龍造寺隆信
  は、挙兵し大友氏の領土である筑前・
  筑後を攻撃。
  瞬く間に占領した。余勢をかって龍造
  寺氏は肥後北部、豊前、豊後へと侵攻
  し、大友氏は防衛する力もなく敗北。

  豊後と筑前の一部だけを確保するだけ
  にとどまった。
  大友氏の重臣・田原親宏、親貫父子と
  田北紹鉄が謀叛を起こし、大友氏の組
  織体制は崩れた。

  なんとかこの反乱を鎮圧したものの大
  友氏の家臣の多くが離反することと
  なった。
  国人領主の反乱が相次ぎ、大友氏の
  支配力はさらなる低下を見た。

  立花道雪、高橋紹雲の二人が頑強に
  守備したことからようやく大友氏にも安
  定が戻ったがその間に島津氏は日向
  と肥後南部を制圧。大友氏の支配力を
  完全に南九州から排除した。
  
■島津氏が肥前を中心とする五州七島を
  領有する龍造寺氏と決戦を挑み、見事
  総大将の龍造寺隆信を討ち取り、龍家
  を傘下におさめると鉾先を大友氏へと
  向けた。

  九州制覇の最終段階に入った島津軍
  の猛襲を受けた宗麟は、とても防衛で
  きず、英断を下す。
  本州中央部を支配下におさめた豊臣
  秀吉に救援を求めたのである。
  秀吉は快く引き受け、まず島津氏に対
  し、使者を遣わし、大友氏と和議を結
  び、即刻戦火を起こさぬように勧告した
  。もとよりこの勧告に島津氏が従うはず
  もなく、島津氏は大友氏の最後の領土
  ・豊後国へとなだれ込んだ。

  立花道雪、高橋紹雲の奮戦で何とか時
  間を稼いでいた大友氏であったが、屈
  強な島津軍の侵攻を抑えることができ
  ず大友氏は本国で力のない抵抗を続
  けた。
  一方、秀吉は九州平定戦の準備に取り
  掛かるとともに四国の諸大名に九州平
  定戦の先鋒を命じた。

  仙石、十河、長宗我部ら諸大名で組織
  された先発隊は、1586年九州に出陣
  した。
  四国武士の九州上陸が成されたが、島
  津軍の”釣り野伏”作戦にひっかかり、
  まともな戦いもできずに崩壊。

  ”鬼十河”の流れを汲む十河存保、”四
  国の鳳雛”と呼ばれた長宗我部信親ら
  名だたる諸将が異大陸の地を枕に
  した。
  名だたる諸将を討ち取られた四国勢は
  崩壊。豊臣氏による第一次攻撃は、失
  敗に喫した。

■豊臣軍先発隊を撃破した島津軍は余勢
  をかって、大友氏の残りの領土制覇を
  目指した。
  宗麟は、海に浮かぶ孤城・丹生島の臼
  杵城に入り、徹底抗戦をする構えを見
  せた。
  一挙に攻め落とそうとする島津軍に対
  し、宗麟はポルトガル商人より購入した
  新兵器・”国崩”の大砲を装備し、島津
  軍に向けて放った。砲弾は海を越え、
  はるかかなたの島津軍に命中し、島津
  軍はただならぬ被害をこうむった。

  これを見た島津軍の総大将・島津家久
  は臼杵城の攻略を諦め、大友軍の上
  陸を防ぐだけの守備隊を残して撤退
  した。

■筑前に篭る大友勢の高橋紹雲は、
  1000人にも満たない手勢で頑強に島
  津軍に拮抗し、岩屋城にて壮絶な攻城
  戦を展開し、島津軍を2週間も足止め
  するという天下に武名を轟かせた。

  大友勢のしぶとい抵抗にあった島津軍
  は、九州制覇を目前にしながら、なか
  なか達成できない状況と成る。
  その間に九州征討への準備を整えた
  豊臣軍が25万余の大軍を率いてくると
  島津軍は、各地で抵抗するが敗退を続
  け、1587年5月8日島津氏は豊臣氏に
  降伏した。

  ここに永きに渡る九州戦乱は幕を閉じ
  たのである。

■戦後処理を推し進めた秀吉は、宗麟に
  対し、九州諸大名で最初の豊臣氏傘下
  となった功績として日向一国の統治を
  命じたが、宗麟は老齢を理由に辞退。

  豊後国津久見の地で最後の時を送
  った。
  1587年、かつては九州の8割強の領土
  を保有した宗麟は、戦乱明けして間も
  ない九州の地で没した。
  享年58歳。