おおとも よしあき
1502-1550
享年49歳。


名称:次郎、五郎、親安、親敦
居城:豊後大友館城


■大友義長の子。
  1515年、弱冠14歳で家督を継ぎ、
  豊後大友宗家二十代目当主となる。

  家督を継いだ年に豊後直入郡の
  朽網親満の反乱を鎮圧し、大友家
  当主としての力量を内外に示した。

■肥後菊池氏の家督継承争いが勃発
  すると義鑑はそこに付け込み、弟・
  菊法師丸重治を菊池氏の養子に入
  れ、菊池氏を乗っ取り、肥後への
  影響力を強めた。

  しかし、重治は菊池義武と改名して、
  兄の大友氏に反逆。
  独立を目指した。この動きによって、
  豊後領国内で紛争が続くことと成る。

■1534年、義鑑は豊前の支配権をめぐ
  って、中国地方の雄・大内義隆と死
  闘を繰り広げることとなる。

  速見郡場ヶ原で大友軍と大内軍が
  激突。決着がつかぬまま、足利将軍
  ・足利義晴の和平勧告を機に1538年
  、両軍の和平が成立した。

■義鑑は足利将軍家と密接な関係を
  保ちつつ、日本一の穀倉地帯である
  肥前に目をつけ、その侵略に着手し
  た。

  大友氏に反目する弟の菊池義武を
  排除して1543年、義鑑は肥後守護
  に補任され、ますます大友家の隆盛
  を極めた。
  また、義鑑はすぐれた家臣団を組織
  し、勢力拡大を果たした各地にその
  有能な家臣たちを配置した。
  こうして、義鑑は戦国動乱の時代に
  あって比較的安定した領国経営を
  実現し、豊後・筑後・肥後の三ヶ国
  にまたがる広大な領土を保有した。

■義鑑の順風満帆な栄華進行は突如、
  家臣たちの乱行によって断絶する
  こととなる。
  義鑑は、周囲の迷惑を省みない粗暴
  な性格を持つ長男・義鎮(のちの宗麟
  )を嫌い、律儀で誠行な振る舞いを
  する三男の塩市丸を次期大友家当主
  にしようとしていた。
  この長男を廃嫡にしようとする義鑑の
  意向を受けた義鑑の直臣が義鎮の
  直臣を強襲。
  この暴挙に逆上した義鎮の直臣たち
  は、この乱行の要因を作った主君・
  義鑑を猛襲。
  大友館の二階に居た義鑑ら大友氏
  一族を惨殺した。
  この乱行で義鑑は重傷を負い、三男
  ・塩市丸は殺害された。
  その頃、湯治に出かけていた義鎮は
  ことの知らせを聞き、すぐさま大友館
  へと急行。

  事態収拾の陣頭指揮を取り、乱行に
  荷担した一族郎党をことごとく処断
  して禍根を断ち切った。

  この敏速な処置を取った義鎮を見て
  瀕死の床に居た義鑑は、義鎮の大友
  家家督相続を認め、『義鑑条々』の
  遺言を義鎮に与え、まもなく没した。
  享年49歳。