きくち よしたけ
1506?-1554
享年49?歳。


名称:菊法師、左兵衛佐、従四位下、
    大友重治
居城:肥後隈本城


■大友義長の子。
  大友義鑑の実弟で、大友重治と名
  乗った。
  肥後の菊池氏が家督争乱を起こすと
  義鑑は菊池氏の家臣を抱き込み、菊池
  家当主・菊池武包を追放して、実弟の
  重治を菊地家へ入れた。重治は菊池
  義武と名乗り、大友氏の肥後支配の先
  鋒として勤めた。

  菊地家を大友氏に乗っ取られた菊池
  武包はまもなく挙兵して奪還を図った
  が大友傘下の肥後の熊・阿蘇惟将とそ
  の謀臣・甲斐宗運によって討伐さ
  れた。

  武包は肥前へ敗走し、進退窮まってま
  もなく没した。こうして、菊地家の正統
  な血筋は断絶することとなった。

■大友氏の肥後制覇の先鋒として活躍す
  ることを期待された義武であったが、さ
  すが謀略に長けた兄・義鑑と血を分け
  た兄弟だけあって、義武自身も謀略を
  謀り、大友氏から独立。

  反大友勢力と結託して大友宗家の家
  督を狙う行動へ出た。
  驚いた大友氏は、義武鎮圧に軍を肥後
  へ派兵。義武を追放する。

  その後、”二階崩れの変”が起こり、兄
  ・義鑑が死去すると再び挙兵し、肥後
  隈本城を奪取。見事、肥後へ返り咲き
  を果たした。
  そのまま肥後一国支配を目指した義武
  であったがそれを大友宗家が許すはず
  もなく大友氏は大軍を派兵して義武討
  伐を敢行。
  勇将ひしめく大友軍の前に成すすべな
  く大敗した義武は島原に逃走。

  流浪する日々を送る中、謀叛の罪を許
  すとの帰参命令が大友氏より出される
  と義武は何も疑わずに故郷の豊後へ
  帰参した。

  しかし、これは謀略であり、義武はその
  まま長年にわたる大友宗家への謀叛
  の罪を責められ、自刃することを強要。
  渋々、野望を捨てて義武は割腹して果
  てた。