しが あきたか
1530?-1588
享年59?歳


名称:常陸介入、兵庫頭、兵庫助、越後守
居城:豊後南山城


■大友一族の庶流である南志賀家の出。
  代々、志賀家は大友氏の加判衆を
  勤め、鑑隆も一時、大友義統の加判衆
  を勤めている。

■1578年、耳川の戦いで大友氏が島津氏
  に大敗すると次々と大友氏の支配下
  にあった国人武将が反乱を起こした。
  鑑隆は、この反乱軍を各個撃破すべく
  各地を転戦し、国人討伐に軍功を立て
  た。

  また、大友氏の傘下にあった肥前の
  龍造寺隆信が挙兵し、大友氏の領土
  である筑前・筑後を攻撃し始めると
  鑑隆は、筑前・筑後に出陣して龍造寺
  軍と戦った。

■1585年、島津軍が大友氏の本拠・豊後
  へ攻め込んでくると鑑隆は、落ち目と
  と成り行く大友氏を必死に助け、島津
  軍と死闘を繰り広げた。

  鑑隆は居城の南山城に篭城して島津
  軍と戦ったが救援なく、主君・義統が
  島津軍に大敗すると事態回復の見込
  みが立たず、遂に島津軍に降伏した。

■その後、豊臣氏の九州征討により、
  九州の地に平穏が戻ると鑑隆は、
  義統に仕えたが1588年、島津氏に
  降伏した不忠を責められ、自刃して
  果てた。