たちばな どうせつ
1513-1585
享年73歳。


名称:八幡丸、左衛門大夫、伯耆守、
    戸次鑑連(べっきあきつら)、
    紀伊入道、丹後入道、麟白軒
居城:豊後鎧岳城→筑前立花城


■戸次家の出。
  14歳で戸次家の家督を継ぎ、戸次
  鑑連(べっきあきつら)と名乗る。

  立花家が謀叛を起こすと鑑連は、この
  鎮圧戦に参軍し、これを平定した。
  鑑連は立花城の城督に就任し、
  3000町の領地加増を拝領するなど厚
  遇を受けた。

  さらに主君・大友宗麟の命により、立花
  家の名跡を継ぎ、この時、鑑連は立花
  道雪と改名した。

■道雪は、不運にも落雷事故にあい歩行
  が困難となるがそれでも道雪は、屈強
  な部下に輿を担がせ戦場を駆け巡
  った。
  部下を叱咤激励して采配を振るう道雪
  は大友家屈指の名将として家中に君
  臨した。

■中国の雄・毛利軍が九州の地へ侵攻
  すると1569年5月18日、立花城を攻略
  した。
  余勢をかって毛利軍は多々良川を渡
  河し、対岸に布陣する大友軍に攻撃を
  開始。

  毛利軍4万に対し、大友軍は3万5000
  とほぼ互角の兵力であったが、兵の
  士気が高い毛利軍の波状攻撃に大友
  軍は押されぎみとなる。
  毛利軍は多々良川の流域数キロに渡
  って戦線を拡大し、大友軍の陣形を崩
  した。

  防戦一方の大友軍は、毛利軍の攻撃
  に苦戦するが、この時、道雪は毛利軍
  の小早川隆景隊の左翼備えが弱いこ
  とを見抜き、大友鉄砲隊800人余を動
  員して敵左翼めがけて一斉射撃を
  した。

  兵力が薄い左翼はこの攻撃で一挙に
  崩壊し陣形に空白が出来る。
  そこを立花隊5000が怒涛の勢いで突
  っ込み毛利軍の陣形を突っ切り、毛利
  軍の後方へと抜け出た。
  毛利軍の後方を占領した立花隊は、
  後方より前方の攻撃に忙しい毛利軍
  の手薄な陣形を突き、各個撃破して
  いった。

  前後を敵に囲まれ、挟み撃ちに遭っ
  た毛利軍は、いったん戦線を離脱。
  戦線から後方300メートルほど後退
  し、陣形の整備を図った。
  しかし、一度、敵を斥け、勢いに乗る
  大友軍にはかなわず、ついに宝満城
  救援を諦め、立花城へ撤退した。

  こうして、多々良浜の合戦は大友軍
  の大勝利に終り、道雪は大友家中一
  の軍功者となった。

■その後、道雪は老齢を理由に隠居を
  宗麟に願い出て、娘に家督を譲った。

  さらに利発者として知られた宝満城の
  城主・高橋紹雲の長男・高橋統虎(の
  ちの立花宗茂)を婿養子として迎え、立
  花家の家督を譲った。

■1578年、耳川の戦いで大友氏が島津氏
  に大敗すると大友氏は栄華から転落し
  て行く。
  道雪は反大友勢力と激しく戦い必死に
  落ち目となった大友家を盛り立てた。

  道雪は立花城を拠点に博多を守り、岩
  屋城の高橋紹雲と協力して龍造寺、秋
  月、島津氏らの侵攻を必死に防いだ。

  防戦一方からようやく攻撃に転じた大
  友軍は筑後の猫尾城攻めの最中、158
  5年9月に道雪は病没した。
  享年73歳。

  道雪の跡目を受けた養子の立花宗茂
  は、立花城を死守し、大友氏存命に貢
  献した。