たちばな むねしげ
1567-1642
享年76歳。


名称:千熊丸、統虎、鎮虎、宗虎、
    正成、親成、尚政、俊正、経正、
    信正、左近将監、羽柴柳川侍従、
    飛騨守、立斎、従四位下
居城:筑前宝満城(支城岩屋城)→
    筑後柳川城


■猛将・高橋紹雲の二男として誕生。
  名将・立花道雪の養子となり、統虎と
  名乗る。
  後に立花宗茂と改名す。
  実父・紹雲が岩屋城激戦で討死すると
  、宗茂は立花城に篭った。

  島津軍が侵攻してくると降伏すると偽り
  、島津軍を足止めし、豊臣軍の遠征軍
  到来の時を稼いだ。
  島津軍が宗茂の降伏が偽りである気
  づいた時には、すでに豊臣軍遠征隊の
  先鋒・毛利軍が九州に到来し、侵攻を
  開始していた。

  態勢を立て直すべく急きょ撤退した島
  津軍に対し、宗茂はすかさずこれを
  追撃。
  島津軍に占拠されていた宝満城と岩屋
  城の奪還に成功し、さらに撤退する島
  津軍を追撃して、多大な被害を島津軍
  に与え、宗茂は見事な勝利を飾った。

■九州平定を成した豊臣秀吉は、謁見し
  た宗茂を気に入り、”東の忠勝、西の宗
  茂”と賞賛し、宗茂を大友家より独立さ
  せ、筑後南四郡、合わせて13万石を
  与えて、豊臣旗下の大名とした。

  その後、宗茂は肥後一国の平定戦や
  朝鮮出兵で軍功を挙げ、名将として名
  をはせた。

■1600年、関ヶ原争乱が起こると宗茂は
  秀吉から受けた恩を律儀に守り、西軍
  に属して近江大津城に篭る東軍の京
  極高次を攻撃。
  これを攻略する働きを見せたが、西軍
  本隊の石田三成らが東軍に大敗に喫
  したため、やむなく宗茂は本国の筑後
  へ撤退した。

  途中、西軍に属し敗走する島津軍と
  遭遇。
  実父・高橋紹雲を討った仇敵である島
  津氏を目の前にして、宗茂の側近は手
  勢70~80騎余の島津軍を見て、今こ
  そ仇敵を打つべき時と進言したが、宗
  茂は”敗軍を討つは武門の誉れに反す
  る”としてこの進言をしりぞけ、立花軍
  は島津軍と共に九州へと落ち延びて
  いった。

  後に加藤清正が宗茂の本領・柳川城を
  攻めた時、先刻の恩を返すべく、島津
  氏は宗茂に援軍を送っている。

■西軍に属したことでさしもの宗茂も改易
  の憂き目を見て、浪人となったが、名
  将として名高い人物であっただけに諸
  大名たちがこぞって家臣に取り立てよ
  うと動いた。

  ついには、徳川幕府二代目将軍・徳川
  秀忠までもが宗茂獲得に動き、結果、
  宗茂は徳川家に仕えることと成る。

  1620年には、旧領である柳川の領主
  に返り咲き、柳川藩を開いた。
  西軍に属しながら、改易後に大名とし
  て復興したのは後にも先にも、立花宗
  茂ただひとりである。

  その後は、大阪の役、島原の乱などの
  争乱鎮圧に参軍し、名将としての手腕
  を振るった。