ちょうそかべ のぶちか
1565-1586
享年22歳。


名称:千雄丸、弥三郎
居城:土佐岡豊城


■四国の覇者・長宗我部元親の嫡男とし
  て誕生。
  幼き頃より、英才の妙味を現し、父・元
  親はじめ、長宗我部家臣団から栄華成
  就を成す貴公子として期待を一身に受
  けて育つ。

■信親元服の時、父・元親と友好を保った
  中央政権の覇者・織田信長から元服祝
  いとして信長の『信』の一字を送られて
  、信親と名乗る。

■信親が元服した頃、すでに天下は織田
  信長の手中となりつつあり、父・元親は
  織田氏と友好関係を保ちつつ四国制
  覇を目指した。

  信長が天下人と成ったあかつきには、
  長宗我部家はその属大名として四国
  全土を任されることが望ましいと元親
  は考え、それを政策方針と定めて
  いた。

  もし、織田家が没落するようなことがあ
  れば、織田家の属大名として天下の二
  番手に位置して長宗我部家が天下を
  制覇しようと父・元親は考えていた。

  強者に準じながら、天下之趨勢をうか
  がう泰然とした戦略を元親は取ったの
  である。
  元親自身は天下を望まず、四国の鳳
  雛・信親に天下を望ませようというのが
  元親の腹積もりであった。

■しかし、元親の予測は外れ、長宗我部
  家と深い関係を持っていた明智光秀が
  信長に謀叛を起こすと、瞬く間に天下
  之覇権は右往左往するようになった。

  結局、秀吉という父・元親の千里眼をも
  ってしても予測できなかった人物が天
  下を掌握するに至った。
  目まぐるしく変わる政局の中、動揺せ
  ずに元親は、四国制覇を目指し快進撃
  を続けた。

■父・元親の四国制覇戦に参軍した信親
  は、父や家臣団らの度肝を抜く、軍略
  の才を現し、四国を抜くのは元親だが
  、天下を抜くのは信親ともてはやさ
  れた。
  ほぼ四国全土を手中に収めた長宗我
  部家であったが、秀吉もそれと同じくす
  るように中央政権の動乱を鎮静。

  いよいよ秀吉の地方攻略の手が伸び
  てくると、元親はどこの馬の骨とも知れ
  ない秀吉にほいそれとは従わず、拮抗
  すべく軍備増強に着手した。

  いつ攻め込んでくるかと固唾を呑んで
  見守る中、秀吉病に伏せるとの知らせ
  が長宗我部陣営に舞い込む。

  これは長宗我部家の天下席巻の神の
  ご沙汰かと家臣団は皆、浮き足立って
  喜んだが、それもつかの間。
  秀吉の実弟・羽柴大和守秀長が四国
  遠征軍を率いて来るとのこと。
  長宗我部軍は四国争奪戦の開幕を華
  々しく飾ったが、百戦錬磨の羽柴軍団
  の強さに一敗地にまみれて大敗を喫
  した。

■こうして、秀吉に拮抗する一大勢力を築
  くことはできなかった長宗我部家は、秀
  吉の懐柔政策により、土佐一国の安堵
  という恩情によりかろうじて存命するに
  留まったのである。

■しかし、これで引き下がる四国の覇者・
  元親ではない。豊臣政権で幕下に組し
  た四国の土侍(どざむらい)ながら、覇
  気においては、天下人の秀吉も元親も
  同一。

  たちまち秀吉と元親は意気投合し、秀
  吉お気に入りの大名となり、豊臣政権
  内でも一目置かれる存在にのし上が
  った。
  この父・元親のしたたかさには、信親も
  舌を巻いたことでだろう。
  土佐一国の中堅大名となっても、巨大
  組織豊臣家の中で並み居る諸将より
  群を抜けば、天下の着座に近づくとい
  う戦を弄さずして、得られる不戦の出
  世画策は、まさに戦国屈指の軍略家・
  元親ならではの方術である。

■父・元親のしたたかな処世術の効果か
  、秀吉が九州征伐戦を巻き起こすと長
  宗我部家は、その先発隊を命じら
  れた。

  合戦においては、先陣隊ほど名誉な役
  目はなく、これを長宗我部家が担当す
  るということは、一にも二にも、軍功一
  番の手柄を得られる絶好の機会を与え
  られたことを意味する。

  豊臣政権に新しく組み入れられた長宗
  我部家がグングン出世できる非常に明
  るい朗報となったのである。

  秀吉本隊が九州大陸に到着する頃ま
  でに、秀吉に反する九州の田舎大名・
  島津氏を蹴散らすべく、長宗我部軍は
  かつて四国の覇権をめぐって死闘を繰
  り広げた讃岐の十河存保とともに四国
  勢先発隊として九州大陸へと渡海
  した。

■信親自身も天下之英才として天下にあ
  まねくその実力のほどを見せ付けるべ
  く、長宗我部軍一番手として出陣。

  豊後戸次川付近を行軍中、島津軍の
  奇襲に遭遇することとなる。
  島津軍は、奇抜な戦術を幾重にも駆使
  して攻めかかるという戦国広しといえど
  も、稀に見る特異な戦術部隊集団で
  ある。

  島津軍のいびつ極まりない戦術によっ
  て、どれだけの九州諸将が大地を枕に
  して戦死したかわからないほど、その
  戦術の威力は絶大であった。

  かつて、肥前の熊と礼讃された龍造寺
  隆信、九州の実に7割を手中に収めた
  大友宗麟でさえもこの島津の毒牙に侵
  されたものである。

  その情報を知らなかったことは、ある意
  味で長宗我部軍ら四国勢にとって幸せ
  であったことなのだろう。
  しかし、知らないことが長宗我部家の
  命運を栄光への上り坂から没落への
  下り坂へと道を踏み外す結果とな
  った。

  島津軍が率いる屈強な九州男児が繰
  り出す異質な戦術の前に四国勢は大
  混乱となった。
  四国勢のほぼ全てが逃げ惑う中、唯一
  戦場で島津軍と奮戦を繰り広げたのが
  四国不出の勇将・長宗我部信親で
  あった。

  信親率いる長宗我部決死隊は、夜叉
  の如く荒れ狂う島津の猛者たちをなぎ
  倒し、奮戦につぐ奮戦を強いて、頑強
  に戦場に踏みとどまった。

  この信親の頑強な踏みとどまり部隊が
  なかったならば、四国の覇者・元親は
  討死していたことであろう。
  それほどまでに猛烈な追撃をする島津
  軍は、敵から追撃をかわす名手であっ
  たことから、どこを追撃すれば敵を捉え
  て撃沈させられるか知っていたの
  だろう。

  戦国屈指の軍略家・元親が何時間も戦
  場を逃げ回って漸く戦場離脱をしてい
  るのだから相当なものであったと推測
  できる。
  元親がやれ一安心と一息ついていると
  ころに長宗我部信親、奮戦死す!の一
  報が流れた。

  四国の鳳雛、四国不出の勇将・長宗我
  部信親、戦死の知らせを聞いた元親は
  、懐刀にてその場で自刃して果てようと
  したほどである。
  側近の制止がなければ、元親・信親父
  子の墓碑が九州の地に立ち並んでい
  たことだろう。

  信親の死は、四国の英雄・元親の気力
  を一挙に失わせるほどの天下之逸材
  であったのだ。
  信親存命であらば、その後の天下の趨
  勢も少しは変わっていたといっても過
  言ではない。
  それほどまでに信親の英才は凄まじか
  ったとすることができるのも、信親死後
  の父・元親の狂乱振りがあってのこと
  である。