ちょうそかべ もとちか
1539-1599
享年61歳。
名称:弥三郎、宮内少輔、土佐守、
従四位下、少将、土佐侍従
居城:土佐岡豊城→土佐大高坂城→
土佐浦戸城
■土佐の雄・長宗我部国親の嫡子として
誕生。
元親は大の戦嫌いであったため、長宗
我部家の家臣たちは主家の前途を危
ぶんだという。
幼き頃より、なよなよしていた元親は、
家臣たちから”姫若子”(※女っぽい男
の意味)と呼ばれていた。
■豪傑たちがひしめく戦国の世に脆弱な
がらも成長した元親は、長浜合戦で初
陣を果たした。
この合戦で元親は、初めて槍を持ち、
敵陣に突っ込む直前になって、側近に
槍の使い方を教えてもらったという。
この時、大将の作法として”大将とは敵
前で逃げぬもの”と教えられた元親は
、真一文字に敵陣営に突っ込み、即席
で教わったことに徹して見事、四倍以
上もいた敵軍を粉砕する大功を立
てた。
■華々しい戦果で初陣を飾った元親に対
して、家臣たちはそれ以降、無条件に
元親の下知に服従したという。
元親も初陣以降、すぐれた軍略の才を
現し、敵の裏の裏をかく深謀に長け、
勝利の見込みが確実になるまで合戦
を軽々しく始めなかったという。
この徹底した兵法への則し方は、四国
を制覇する元親の真骨頂となる。
■元親が戦国屈指の軍制家として名を轟
かすことになるのが一領具足制度の導
入である。
他の大名とほぼ同じ領土を保有してい
ても、一領具足制を用いることで、実に
数倍の桁違いの軍事力を得ることがで
きるという画期的な軍制であった。
元親の完璧なまでの謀略も強大な軍
備力を背景にしなければ、達成できな
いと四国の英雄・元親の頭脳計算には
あった。
■”情報を制するものは世界を制する”と
いう覇者の条件を満たしていた元親は
、千里眼を持った情報収集の名手でも
あった。
思慮を重ねた謀略も、その時々の情勢
に適合してこそ、初めてその威力を発
揮することを知っていた元親は、当時、
尾張の小大名にすぎなかった織田信
長が美濃の龍・斎藤氏を攻め滅ぼした
との知らせを聞き、織田信長が将来、
天下を制する覇気を持つ者に相違ない
とにらみ、早々に使者を織田氏へ遣わ
している。
この時、元親の使者は、明智光秀の重
臣・斎藤利三に近づき、織田家の情報
を得ることに成功している。
また、斎藤利三の妹を元親は嫁に迎え
ている。これは、美濃の斎藤氏が代々
名将を輩出していることを聞いていた
ことから、それにあやかりたいとの意図
があってのことと思われる。
■幾度となく織田家に使者を発てていた
元親は、明智光秀を通して、中央政権
の情報を得ていた。
しかし、明智光秀を通して得ていた情
報だったためか、天下人の覇気を発す
る羽柴秀吉という存在に元親は気付か
なかった。
信長がいよいよ中央政権として磐石な
ものとなってきたことで、元親は織田家
で一、二を争う宿老の明智光秀と太い
パイプラインを敷き、織田家の有力な
付属大名となるべく調整を図っていた
らしい。
天下人・信長に付属して四国全土を任
されることでゆくゆくは孫のあたりで天
下餅をもぎ取れるかもしれないと元親
は考えていたかもしれない。
その超高性能な元親の千里眼も秀吉
という横槍が入ることは見抜けなかっ
た。
元親の計算が狂ったのは、信長が天
下人としてはあまりにも暴虐すぎたこ
とだった。
また、その暴虐を黙認するほど謙虚で
はなかった宿老・明智光秀。
本能寺の変という要素は、深い怨恨か
ら朝廷宮中までをも巻き込むさまざま
な人々の思惑が入り混じった陰謀の渦
の中で起こった出来事であり、四国の
清廉な土着者には到底、思慮の及ぶ
に至らない高雲の絵空事であった。
■暴虐の王・信長をなぎ倒した光秀であ
ったが、”中国大返し”という疾風迅雷
の猿業を披露した秀吉によって、山崎
合戦において敗退。
敗将・光秀は小栗栖にて土民の毒牙
に襲われ、あえなく落命した。
山崎合戦で秀吉の大軍と死闘を繰り
広げた末に華々しく討死した斎藤利
三の遺族が秀吉の追っ手を逃れて、
土佐の元親の下へと走った。
元親は斎藤利三の遺族を手厚く保
護し、中央政権の目まぐるしく変わる
情勢に目を白黒させた。
元親が秀吉という猿業か神業かよくわ
からないながらも恐ろしいほどの威力
をもって破竹の快進撃を続けているの
を落ち着かない面持ちで見守っている
中、斎藤利三の遺族でのちに徳川三
代目将軍・徳川家光の乳母となるお福
(のちの春日局)が成人を迎え、元親
はそれを素直に喜んでいる。
■信長横死の知らせに方針修正に苦慮し
ながらも、元親は、四国統一という長年
の夢を達すべく兵馬を忙しく動かして
いた。
そんな中、四国の将兵に酒豪が多くい
たことを気に留めた元親は、酒のせい
で軍事活動を将兵がおろそかにするの
ではと危惧し、”禁酒令”を発布した。
理想主義を唱えて、理想の軍兵組織を
目指した結果の元親の暴挙であったが
、叡君の命とあれば仕方なく、将兵は
渋々この下知に従った。
しかし、まもなくして”禁酒令”の発布者
・元親自身が密かに酒を盗み飲みして
いるのを家臣に見つかり、あえなく発
布令は廃止とあいなっている。
■四国統一もほぼ実現することに成功し
た元親ではあったがそれと同時期に秀
吉も中央政権を整え、いよいよ地方制
圧戦へ乗り出そうとしていた。
四国の英雄・元親も覚悟を決めて、猿
神・秀吉に敵対することを内外に現し、
秀吉との決戦に備えた。
ところがいよいよ秀吉による四国征討
へ乗り出す直前になって、秀吉は病に
伏せった。
この報を知った元親は、もし秀吉が
没すれば、四国武士が天下を奪取する
ことも夢ではなくなると刹那の野望を抱
いたことだろう。
しかし、事態は元親へ好転することは
なかった。秀吉が体調不良ならばと実
弟の羽柴秀長が総大将を務め、四国
遠征が敢行された。
秀吉が率いる百戦錬磨の武将たちを
受け継いだ秀長の前に元親は一敗地
にまみれて、天下の覇者どころか、四
国覇者の座までをも奪われる結果とな
ってしまった。
■羽柴軍に大敗を喫した元親は、ほどなく
秀吉と和議を結ぶと秀吉の得意とする
懐柔政策によって、土佐一国だけは保
有を認められた。
元親は秀吉のこの寛大な処置に感銘
し、以後、秀吉軍団の幕下に組するこ
ととなった。
”英雄は英雄をぞ知る”の言葉どおり、
天下人・秀吉と四国の覇者・元親の波
長は一致し、元親は秀吉お気に入りの
戦国大名として、豊臣政権で一目置か
れる存在へとのし上がっていく。
■秀吉の九州征伐に際して、長宗我部家
はその遠征軍の先発隊をおおせつか
るというこの上ない名誉を賜っている。
秀吉本隊が九州大陸に到着する前に
秀吉に反する九州の片田舎のならず
者・島津氏を一掃しておくよう大役を任
されたのである。
元親もこの九州征伐で四国武士の名
を挙げれば、豊臣政権で一番を誇る毛
利氏の勢力とまでは行かなくとも、二
番手を誇る宇喜多氏を抜いて、長宗我
部氏がナンバーツーの座に収まること
も夢ではないと考えたことだろう。
元親自身が長宗我部家の栄華を極め
ずとも、元親自慢のせがれ・信親が豊
臣政権で頂点を極めることも可能と計
算したに違いない。
それほどまでに元親の嫡男・信親は英
雄の覇気を放つ名将の器だったのだ。
利発にして軍略の大家であった元親で
さえも、信親の奇策にしばしば感嘆し
たほどの英才であった。
父・元親からの厚い信任はもちろんの
こと、長宗我部家家臣団もこぞって信
親の英才振りに期待をかけていた。
長宗我部家の栄華は信親の手腕で成
せると踏んでいた元親は、九州遠征の
戦いで信親を長宗我部軍の先陣を任
せた。
この戦いで信親の英才振りを天下に知
らしめてやろうと考えてのことだろう。”
鬼十河(おにそごう)”で知られる屈強
な十河軍団を率いる十河存保(そごう
ながやす)も九州征伐先発隊に加わっ
ていた。
かつて元親と四国の覇権をめぐって死
闘を演じた十河存保とともに長宗我部
軍は九州大陸へと渡海した。
四国勢は、豊後国戸次川へ差し掛か
った。
この時、奇襲作戦で九州の名だたる武
将を打ち破ってきた島津軍は、ここでも
四国勢に対して応用。
戸次川の戦いが勃発すると一癖も二
癖もある戦いを仕掛けてくる島津軍に
四国勢は大混乱となる。
思慮を尽くした戦い方をする元親も、島
津軍の奇抜な戦い方と屈強な九州男
児の前に敗退。
チリジリになって逃げ惑う四国勢にあ
って、唯一勇敢に戦ったのが元親の嫡
男・信親であった。
夜叉の如くいかづちを振り回すように、
猛者の島津突撃隊と激戦を演じた。
奮戦につぐ奮戦を強いた信親率いる決
死隊も、援軍なく孤立し、島津軍の餌
食となる。
存命であれば、天下の趨勢もまた代わ
っていたことであろう四国の地不出の
勇将・信親は九州の地にて、並み居る
島津軍兵をなぎ倒しつつ戦死した。
享年22歳であった。
夜叉軍団・島津氏の猛烈な追撃隊を振
り切り、かろうじて戦場離脱を成した元
親は、信親、奮戦死の知らせを受け、
愕然。その場にへたれ込んでしまっ
た。
自分をも抜く天下之逸材と見定めてい
た勇将・信親を失った元親のひどく悲し
み気力が失せてしまった。
信親戦死の知らせを聞くや元親はやお
ら腰に挿していた短刀のさやを抜き、
その場で自刃して果てようとした。
側近の制止がなくば、九州の地に長宗
我部父子ともども墓碑が並んで立って
いたことだろう。
戦国乱世の中にあって、四国の地全土
を抜いた元親の力量は戦国武将屈指
のものがあったが、英雄としての晩年
は、ただただ気力の抜けた老人でしか
なかった。
四国出の武士が始めて中央政権に覇
をとなえることができると確信が持てる
ほどにすぐれたせがれを失ったことは
、元親にとって四国の覇者を降りたこと
よりも苦痛であったことだろう。
■四国の鳳雛を失った悲しみからその後
、脱することがなかった元親は、英雄
の末路としてはよくありがちな人格変
貌を遂げている。
若き頃は、家臣の諫言も快く受け入れ
、人徳を磨きに磨いた元親であったが
、嫡子・信親の九州散りからは、度量
が狭義となり、諫言する者すべてに対
し、死を賜らせるという苛酷な処置に及
んでいる。
また、元親の四男・盛親を偏愛するに
至り、邪魔な二男・親和と三男・親忠を
幽閉するという暴挙を極めた。
かつて麦薙ぎ(むぎなぎ)をする際、ひ
と畦(あぜ)毎に薙いで、農民の食い扶
持を残してやったという温和な名君を
演じた元親であったが、晩年はその片
鱗も彼から見ることができなかった。
意固地で偏屈な老僕と化した元親は、
戦国時代最後の時を秀吉とともに狂い
に狂い踊ったのであった。
■秀吉没後、すっかり腑抜けと化した元親
は、狂い踊る暴挙の沙汰を見せる元気
も失せ、関ヶ原の動乱を見ることなく、
暴挙狂乱の失態を改善する暇もなく没
した。
享年61歳。
もしも、元親の嫡男・信親が存命であ
れば、あれほどまでの変貌を英雄・元
親が成す事は断じてなかったことであ
ろう。
混迷の戦国乱世の時代にあって、すぐ
れた千里眼を持っていた元親だからこ
そ、天下之逸材を失ったことへの暴走
行為は、必然といえば必然であったと
いえよう。
元親が狂うほどに信親の才覚の凄さは
凄まじいものがあったことになるが、元
親の人を見る目の正確さを証明するか
のように関ヶ原合戦後、長宗我部盛親
は政局を見抜けず、土佐長宗我部家を
取り潰しにしている。
長宗我部元親は、戦国屈指の英雄で
あったが、それと同時に戦国屈指の悲
哀な英雄でもあったのだ。
長宗我部 元親
公開日 : / 更新日 :
「長宗我部 信親」