やまなか ゆきもり
1545?-1578
享年34?歳。
名称:鹿介、鹿之介、鹿之助、鹿助、甚次郎、亀井甚次郎
■山中満幸の次男として生まれる。
初め、尼子氏の重臣であった亀井氏の養子となるが、後に
兄・幸高に代り、山中家を継ぐ。
■尼子十勇士の一人として活躍。
尼子十勇士の筆頭にして、尼子家再興のために「願わくば、我に七難八苦を与えたまえ」と三日月に祈った逸話で有名。
1561年永禄3年1月、尼子晴久が急死したため、晴久の嫡男・義久が家督を継いだが、外交政策などで失敗を重ね、勢力が衰え始める。
幸盛は、1562年以降、毛利氏の出雲侵攻に際して、激しい抵抗戦線を引いて活躍した
1563年永禄5年12月、毛利元就は、尼子領の出雲へと侵攻し、尼子方の有力国人たちを次々と服従させ、勢力拡大を進めた。
荒隈に本陣を構えた毛利軍は、尼子氏の本拠地・月山富田城攻めを本格化させた。
1563年永禄6年8月、毛利軍は、尼子十旗の第1とされる白鹿城への攻撃を開始。
この白鹿城は、宍道湖の北岸に位置し、日本海に面した島根半島と月山富田城を結ぶ要衝であり、補給路を確保する上でも重要な拠点であった。
同年9月、尼子氏は白鹿城を救援すべく、尼子倫久を大将とする救援軍を派遣した。幸盛もこれに従軍した。毛利軍との戦いで尼子軍は敗北。
白鹿城の戦いにおいて、敗走した尼子軍は、追いすがる毛利軍の吉川元春、小早川隆景の軍勢に対して、山中幸盛に殿の任を当たらせた。幸盛は手勢200を率いて、追いすがる毛利軍を7度に渡って撃退し、毛利軍の将兵7つの首を討ち取る戦果を上げた。
幸盛の奮戦も虚しく、尼子氏は、毛利氏の侵攻を防げず、滅亡した。
幸盛は尼子氏再興を目指し、京都で僧と
なっていた尼子勝久を擁立し、毛利氏と戦う。
”尼子三傑(尼子三勇)”の一人として有名。
山中幸盛、立原久綱、熊谷新右衛門の三人。
山中幸盛は比類なき無双の武勇を持ち、”山陰の麒麟児”と呼ばれた。
■織田氏の支援を受け、羽柴秀吉らと連携を
取りながら、毛利氏攻略に従事す。
1578年上月城にて毛利氏の猛攻を受け、
城は陥落。尼子勝久は自刃し、幸盛は毛利氏に投降した。
安芸に護送される途中、幸盛は斬首された。