島 左近
しま さこん
1548?-1600
53?歳。

名称:勝猛、清興、友之、昌仲
居城:伊賀上野城代

■当初、左近は大和国の大名・筒井順慶
に仕え、伊賀上野城代となる。
しかし、順慶が没し、その養子・筒井定
次が家督を継ぐと、左近はこれと不和
となる。
左近は筒井家を見限り、権勢を振るう
豊臣家に仕えるようになり、豊臣秀長
に属して活躍。
秀長が没すると秀長の養子・豊臣秀保
に仕えた。

■豊臣秀保が夭逝すると左近は次の主君
を探すこととなった。名将として名高い
左近をほしいと名乗りをあげる大名は
数多と出た。が、自分の石高の半分近
くを分け与えるという破格の条件を出し
て左近を感涙させた石田三成が左近を
最終的に獲得した。

三成に武名高い左近が仕えると聞いて
秀吉は驚いたという。
1594年当時、三成は4万石あまりの小
名であり、左近には半分近くの1万50
00石を与えた。

■左近の武名は高く、”三成に過ぎたるも
いのが二つあり、島の左近に佐和山の
城”と謳われたほどであった。
文禄の役では、三成に従い朝鮮へ渡
海し、軍奉行、船奉行を補佐している。

■1600年、関ヶ原の役では、左近は石田
三成隊の先鋒を務め、決戦前日の9月
14日に美濃国杭瀬川で東軍の中村一
栄軍、有馬豊氏軍を撃破して、西軍の
士気を高めている。

この前哨戦に勝利した勢いをかって
左近は、東軍へ夜襲をかけることを三
成に進言したが宇喜多秀家、小西行長
ら西軍諸将は野戦上手の徳川軍に夜
襲はまずいといってこれを退けた。
左近は夜襲案を退けられたことで敗戦
を覚悟したという。

■9月15日、関ヶ原決戦では、左近は東軍
の黒田長政隊・田中吉政隊・細川忠興
隊・藤堂高虎隊・京極高知隊ら諸隊を
次々と撃破して徳川本隊に迫ったが、
黒田鉄砲隊の一斉狙撃により重傷を
負った。

嫡子・島信勝も藤堂隊へ斬り込み、華
々しく散ると左近は自分の首級が敵に
取られぬように部下に指示して果て
た。
左近の首級が最後まで上がらなかった
ことから西国へ落ち延びたという説も
流れた。

左近が用いた「丸に三つ柏」の紋