小笠原家
おがさわらけ
小笠原家は、源義光の後裔にあたる加賀美遠光の子、長清が甲斐にある小笠原盆地、小笠原村を本拠として、高倉天皇から本拠を姓にするよう勧められて、称したとされる。
室町幕府が成ると小笠原氏は信濃守護を足利将軍から拝命し、本拠地を信濃に移した。
小笠原氏は、古くから急場の故実を伝える宗家として知られ、室町幕府時代もその家格や軍事面で重んじられた。
現代においても、小笠原礼法としてその名を残している。
戦国時代においては、嫡流が筑摩郡の深志(松本)を根城とし、庶流が伊那郡の松尾を本拠とした。
嫡流と庶流が共に信濃の覇権をめぐってしのぎを削った。
甲斐の武田晴信(のちの信玄)が信濃まで出張ってくると、嫡流は武田氏に敗北し遁走し、越後の上杉氏を頼った。
庶流は、武田氏に降伏し、武田氏滅亡後は、徳川氏に臣従した。
江戸時代に入ると、豊前小倉藩15万石と越前勝山2万3000石の大名として、明治維新を迎えた。
小笠原氏は、甲斐源氏の名家であり、馬術・弓術・礼法を定めた宗家として、名高い。
武家にとって、こうした重要な作法を定めた流派の本家本元といったところで、武士の多くがその名を知っていた家柄である。
戦国時代の武士の必読書ともいえる吾妻鑑や太平記にもしばしば、その名が出てきて活躍しており、武士の作法を定めた格式ある家柄の名と合わさり、有名であった。
だが、戦国時代は、乱世の時代。太平な時代に備えるべき礼儀作法などは、実戦ではものの役には立たず。
形式を重んじる小笠原流の弓術や馬術は、実戦では不向きとして、使われなくなる。
捨てる神あれば拾う神ありという言葉があるように戦国大名の中には、小笠原流の諸術を尊んで、学び、自身の権威を高めようと者も現れた。
ゆえに戦国時代、小笠原家は、信濃の所領を甲斐の武田信玄に追われ、放浪の身となったが、その身を預かり受けたいという大名はたくさんおり、引く手あまたであった。
小笠原氏は室町幕府から信濃守護を拝命し、長年、所領としていたが、戦国時代には、信濃全土にまで勢力が及ばず、信州松本平周辺を支配下としていた。
隣国の甲斐には、名将として名を馳せだした武田晴信(のちの信玄)がおり、貪欲に進攻してくると、小笠原氏はこれを阻めず。
天文19年(1550)、小笠原氏の居城である林城(長野県松本市)は武田氏によって、陥落した。
小笠原家当主・小笠原長時は、林城奪還を目指し、武田氏に頑強に抵抗したが、ついに果たせず。
天文21年、越後の上杉謙信を頼りに、小笠原氏は越後へと逃亡した。
その後、長時は、越後から畿内へと身を移し、小笠原一族である三好長慶に迎えられ、足利将軍に武家作法の秘伝を披露し、教授するなど、一時の栄誉を掴む。
その後、再び放浪の旅に出て、会津黒川城(福島県会津若松市)城主・蘆名氏の招きを受け、賓客となる。
長時は、天正7年(1979)、会津滞在中に、長時は、嫡男の貞慶に先祖伝来の文書、系図、宝刀などを譲り渡し、小笠原流諸術の奥義を伝えた。
小笠原宗家を継いだ貞慶は、本能寺の変の混乱に乗じて、故郷の信州松本の奪還に成功する。
そして、甲信へ勢力を伸ばしてきた徳川家康に臣従することで、所領を保った。
天正17年(1589)正月、貞慶は、宗家の跡目を嫡男の秀政に譲った。
同年8月、秀吉の仲介により、秀政は、家康の孫娘を妻に迎えた。
これにより、小笠原家は、徳川一門として列し、最後の戦国時期を迎えるのであった。
長時・貞慶父子は、小笠原流諸術について、一族である赤沢経直にもその奥義を伝授し、後世への伝播を確実なものとした。
後に赤沢氏は小笠原姓に改め、小笠原流の諸術である流弓術、馬術、礼法を現代まで伝えている。
小笠原氏にとって、最後に大きな試練となったのが、大阪夏の陣においてである。
秀政は長男の忠脩(ただなが)と共に徳川本陣の前方を守備した。
激戦も終盤になり、真田の騎馬隊から猛攻を受けた秀政らは、本陣を守らんと奮戦しつつ、討ち死にした。
徳川本陣を死守して名誉の戦死となり、家格は上がったが、家督は、後に残された次男の忠真が跡目を受ける形となり、太平の世の始まりにあって、お家の継続には大きな試練となった。
忠真は家康の曾孫に当たるため、徳川氏の親族として、親藩大名に準じた。
武家作法を創始した本家本元というブランド価値も相まって、小笠原氏は九州小倉に15万石の所領を得て、九州、中国、四国らの西国大名たちの抑えとした。
九州小倉の小笠原家は、”小幕府”などとも呼ばれ、幕府の意向を西国大名に伝え、目付けとする大役を預かる家格として、長き太平の世を生き抜くのであった。