斯波家
しばけ
居城:尾張国清州城
家紋:丸に二引両
斯波氏の始まりは、鎌倉中期まで遡る。
足利泰氏(やすうじ)の長男・家氏(いえうじ)が陸奥国斯波郡を領有したこと際、斯波姓を名乗ったことに始まる。
足利氏の有力な一門であり、武衛家(ぶえいけ)とも称された。
武衛とは、兵衛府(ひょうえふ)の唐名のことである。
室町時代、斯波氏は室町幕府の管領職を務めた。
室町幕府が成った時、家氏の曾孫・高経(たかつね)は、足利尊氏に従い、越前守護などを務めた。
尊氏没後、その後目を継いだ足利義詮(よしあきら)に対して、高経は、幕府執事に子息の義将(よしまさ)を付け、
自らは将軍の後見役を務め、管領と称した。
義将は、義満、義持の管領となり、将軍家をよく補佐した。
康暦(こうりゃく)元年(1379)、細川頼之を放逐するなど(康暦の変)して、斯波氏の地位を確固たるものとした。
義将の子息・義教(はじめは義重)は、応永の乱(大内氏の叛乱)平定戦で戦功を上げ、越前、尾張、遠江の三カ国守護を兼任した。
斯波氏の三カ国支配は、国衙領(こくがりょう)を配下の者に給与し、また、段銭(たんせん)という税を課すなどして、効率よく領国経営を成した。
しかし、領国支配体制の実体は、織田氏、朝倉氏などの守護代に任せたものであった。
斯波氏本体は、在京して、幕政を見る必要があったためである。
この領国体制が後々大きな禍根を残すこととなった。
義教の子息・義淳(よしあつ)が管領に就くも、その甥・義健(よしたけ)には後継者がなく、家化kとして渋川義鏡(よしかね)から養子として迎えた義廉と一族の義敏(よしとし)との間で、家督争いが勃発した。
これを長禄(ちょうろく)・寛正(かんしょう)の内訌と呼ぶ。
この斯波氏の家督争いには、山名宗全、細川勝元、幕臣の伊勢貞親が介入し、応仁元年(1467)応仁・文明の乱勃発の要因の一つとなった。
西軍の総大将・山名宗全は、義廉を管領に擬して戦い、京都を中心に10年に及ぶ戦乱となった。
斯波氏は、この乱で没落したが、領国の越前や尾張では、守護代や国人が台頭した。
応仁・文明の乱では、越前の守護代・朝倉孝景が東軍に属したため、斯波氏は越前の領国支配を失うこととなった。
16世紀初頭には、西軍の義廉、東軍の義敏、いずれも勢力を失った。遠江の領国支配も今川氏に奪われた。
こうして斯波氏の栄華は、応仁・文明の乱を経て、没落したのであった。
戦国時代初頭において、斯波氏は、尾張下四郡の守護代・織田氏の庇護の下、かろうじて命脈を保つほどの衰退ぶりであった。
織田信長が織田家を継ぐと斯波義銀(よしかね)は、三河の吉良氏、石橋氏と手を結び、織田氏打倒を掲げたが、永禄4年(1561)織田氏に敗れた義銀は、清須から放逐され、ついに領国主としての家格を失った。