天文5年(1536年)9月4日

陶興房VS少弐資元

佐賀県多久市多久町

『北肥戦誌』『普聞集』『歴代鎮西志』

 北九州の名門・少弐資元は、天文3年(1534年)10月、龍造寺家兼の仲介を得て、中国の雄・大内義隆と膠着状態にあった戦いを中止し、和睦するに至る。

勢福寺城を明け渡し、戦乱はひとまず収束した。

だが、和睦から1年あまりが過ぎた天文4年(1535年)12月、太宰府に駐屯していた陶興房が義隆の命を受け、肥前三根郡など少弐資元の所領を侵略するに至る。

さらに、翌天文5年(1536年)5月、大内義隆は、朝廷に奏請して、大宰大弐に任ぜられる。

戦国時代、九州の統括と外交を司っていたのは、太宰府であった。名誉職として親王が長官にあたる帥(そち)に叙任されており、権帥(ごんのそち)・大弐・少弐が実質的な政務を取り仕切っていた。少弐氏は代々、太宰少弐を継承していたため、少弐姓を名乗っていた。

大内義隆が、敵対していた少弐氏を超越し、優位に立つために朝廷を動かし、太宰大弐の職を望んだのであった。

少弐資元は所領の押領と義隆の大宰大弐の叙任という圧力に耐えかね、肥前梶峰城に逃れ、対抗するに至る。

資元の子・冬尚は小田政光を頼り、肥前蓮池城へ落ちた。

陶興房はこの逃亡を追撃すべく、千葉興常・波多鎮・草野鎮永など大内氏に降った肥前の国衆たちを招集した。興房は大軍を擁して、梶峰城を包囲した。進退窮まった資元は、専称寺(せんしょうじ)に入った。専称寺は、かつて晴気城の戦いで敗北した父・政資が逃れ、自刃して果てた因縁の地であった。資元もまた、父同様、専称寺にて自刃して果てた。

こののち、大内との和睦を仲介した龍造寺家兼が、少弐氏の遺臣たちに攻められ窮地に立たされることとなる。