みぞお しげとも

1538-1582

享年45歳。

通称:庄兵衛

『細川家記』1568年永禄11年7月10日の記録に明智光秀が足利義昭と織田信長を仲介することが記されており、その中で光秀の家人「溝尾庄兵衛」の名が見える。

1573年天正元年9月ごろ、越前の朝倉家が織田家により滅亡すると、明智光秀は、羽柴秀吉、滝川一益とともに占領統治の行政を担当した。

その差異、明智家の三沢小兵衛秀次、羽柴家の木下祐久、滝川家の津田元嘉の三人が代官として引き継いでいる。

1574年天正2年、1月19日、富田長繁が率いる越前一向一揆が越前守護代・桂田長俊を殺し、21日には越前三代官を襲撃した。

三代官は、安居景健、朝倉景胤の仲裁により、難を逃れ、京都へ帰還した。

1575年天正3年から、茂朝は光秀の命を受け、丹波攻めに従軍している。

1579年天正7年4月、茂朝は明智姓を名乗ることを許される。

1582年天正10年5月、徳川家康の接待役となった光秀に従い、茂朝は家康一行の世話役を務めた。

1582年10月6月、光秀が本能寺に拠る織田信長を襲撃する計画を打ち明けると、その重臣会議の席に茂朝も列席している。

茂朝は信長を討つことに賛成している。

山崎合戦においては、敗戦後、茂朝は、光秀に従い近江坂本城へ落ち延びる一行に従う。

落ち武者狩りで致命傷を負った光秀の介錯を務める。

その首を坂本城へ持ち帰ろうとするも落ち武者狩りに追われ、竹やぶの溝に首を隠す。

茂朝は坂本城へ落ちたが、秀吉軍に攻められ、自刃して果てた。