ふじた ゆきまさ

1510?-1582

享年73?歳。

通称:伝五、伝五郎

明智光秀の父・明智光綱の代から仕えていたとされる。明智五宿老の一人。

前半生はよくわかっていない。

主君・光秀とともに機内を転戦した。

後に光秀が織田家で立身出世を果たすと、行政も山城国静原山城主となる。

本能寺の変では、明智光忠、溝尾茂朝らとともに第二陣兵4千を率いた。

織田父子を討ち果たした後は、すぐさま大和国郡山城に拠る筒井順慶を明智方に引き込むべく、行政は郡山まで赴き、順慶の説得に努めたが、日和見の姿勢に終止する順慶を説き伏せることはできなかった。

山崎合戦では、明智軍右翼隊を率い奮戦するも、全身六ヶ所に負傷し、敗退。

淀まで撤退する。翌日、勝龍寺城が陥落したとの報せを聞くと、行政は自刃して果てた。