だて たねむね
1488-1565 享年78歳。
別名:次郎 初名:高宗
号:受天
官位:従四位下、左京大夫
1488年(長享2年)、伊達家13代目当主・伊達尚宗の嫡男として生まれる。
慣例により、足利11代将軍・足利義高(のちの義澄)から偏諱の授与を受け、高宗と名乗る。
1514年(永正11年)、稙宗が26歳の時、父・尚宗が没したため、伊達家14代当主を継いだ。
同年、羽州探題・最上義定を長谷堂城にて討ち破り、妹を義定の室として送り込み、最上家の実質的乗っ取り支配に成功する。
1517年(永正14年)、足利10代将軍・足利義稙の上洛祝賀のため、稙宗は多額の貢物を贈り、管領・細川高国を通じて、再び、将軍の偏諱を受けて、高宗から改名して、稙宗を名乗った。
さらに左京大夫に任官され、実質的に奥州探題への世襲へとつながった。
元来、左京大夫は奥州探題・大崎氏が世襲する官位であったが、稙宗が任官したことで、奥州探題の移管も行われたことになる。稙宗は、中央との結びつき強化によって、家格上昇を果たしたのである。
稙宗は、葛西氏、岩城氏などと抗争を繰り広げながら、諸侯との間で婚姻外交を展開して、急速に勢力拡大を成し遂げたのである。
1520年(永正20年)、最上義定が嗣子のないまま死去すると、最上家中では、伊達氏の指揮下に抗い反旗を翻した。
伊達氏と最上氏の間で抗争が起こると、稙宗は、上山城・山形城・天童城・高擶城(たかだまじょう)を瞬く間に攻略した。翌年には寒河江へと侵攻し、寒河江氏と対峙した。
この時、稙宗は、葛西・相馬・岩城・会津・宮城・国分・最上の軍勢を集結させ、寒河江の高瀬山から八幡原の地にかけて、軍陣を敷いた。
1ヶ月の対陣し、ついには伊達・寒河江の両氏の間で和議が結ばれ、稙宗は戦火を交えずに軍を退いた。
1522年(大永2年)、稙宗は、室町幕府から前例のない陸奥守護に補任された。
1532年(天文元年)居城を梁川城(現在の福島県伊達市)から西山城(現在の福島県桑折町)へ移すと体制強化に努め、徴税台帳の作成などを通して、城下町づくりに腐心した。
1536年(天文5年)には、171か条に及ぶ分国法『塵芥集』を制定し、伊達氏の統治精度の拡充を成した。
同年には、大崎氏の内乱鎮圧のため、大崎義直が要請を出してくるとこれに応じ、南奥州の諸侯を従え、出陣した。この援軍支援と引き換えに稙宗の次男・義宣を大崎義直の養子に入れることに成功する。
この縁組によって、伊達氏は奥州・羽州の両探題職を事実上、伊達氏の統制下に置くことに成功した。
稙宗の順風な策謀の成果は、長男・晴宗との対立に至る。
稙宗の三男・実元を越後国守護・上杉定実へ養子に出すことや、婿の相馬顕胤へ伊達領割譲など諸問題を巡って、晴宗、桑折景長、中野宗時ら家臣団と稙宗は対立した。
1542年(天文11年)6月、稙宗は、鷹狩の帰途で晴宗の襲撃を受け、西山城に幽閉されてしまう。程なくして、小梁川宗朝によって、救出された稙宗は、奥州諸侯を糾合して、晴宗と抗争するに至る。
奥州全体を巻き込んだ天文の乱が勃発したのである。
この争乱は、当初、稙宗側が優勢であったが、1547年(天文16年)稙宗方であった会津の蘆名盛氏が福島中通りの領地を巡って、田村氏と対立したため、急遽晴宗側へ蘆名氏が寝返ったことから、形成が逆転してしまう。
1548年(天文17年)9月、足利13代将軍・足利義輝の仲裁を受けて、稙宗は、晴宗へ降伏する形で和睦し、伊達家の家督を晴宗に譲り、自身は丸森城へと隠居した。
この争乱によって、伊達氏の従属であった大崎・葛西・最上・相馬・蘆名の諸侯は各々独立し、伊達氏の対抗馬となってしまう。