だて はるむね
1519-1578 享年60歳。
別名:次郎
諡号:保山公
官位:従四位下、左京大夫
室町幕府奥州探題
伊達家15代当主。
伊達家14代当主・伊達稙宗の長男として生まれる。
1533年(天文2年)、室町幕府12代将軍・足利義晴の偏諱を受けて、晴宗と名乗る。
1542年(天文11年)6月、父・稙宗の領土拡大策の一貫として、三男・実元(時宗丸)を越後国守護・上杉定実の養子に出すことが決まった。
さらに稙宗の娘婿・相馬顕胤に伊達領の割譲案が浮上した。これら稙宗の方策に対して、晴宗は、重臣・桑折景長、中野宗時らと組んで反対の挙に出る。稙宗の留守の隙きを突いて、稙宗を西山城に幽閉した。実元の養子縁組を阻止した。
伊達家の掌握を目論んだ晴宗であったが、稙宗の忠臣・小梁川宗朝が稙宗救出に動き、事態は急変する。危機を脱した稙宗は、奥州諸侯を糾合して、実子・晴宗と争う構えを見せた。ここに天文の騒乱が勃発する。
当初、稙宗方が優勢で、晴宗方は、敗戦続きであった。1547年(天文16年)それまで稙宗側であった会津の蘆名盛氏が福島中通りの領土を巡って田村氏や二階堂氏と対立したことから、晴宗側に寝返った。これにより、晴宗側は形成挽回を果たし、稙宗側を追い詰めた。
1548年(天文17年)、足利13代将軍・足利義藤(後の義輝)の停戦命令を受け、同年9月に両者の和睦が成立した。稙宗は、伊達家の家督を晴宗に譲り、丸森城へ隠遁した。
晴宗は、米沢城に居を移し、疲弊した家中の統制にあたった。