さたけ よししげ

1547-1612 享年66歳。

幼名:徳寿丸

別名:次郎 渾名:鬼義重、坂東太郎

官位:常陸介

佐竹氏18代当主。

父は、佐竹氏17代当主・佐竹義昭、母は岩城重隆の娘。

正室は、伊達晴宗の娘・宝寿院。

後北条氏と関東の覇権を争う。戦国時代において、佐竹氏の全盛期を築く。領内の金山採掘に力を入れ、最新の冶金術を取り入れ、軍資金を増やし、関東市の鉄砲隊を組織した。

父・義昭の代から越後の上杉氏と連携を強めて、1566年永禄9年には、小田氏治を攻めて、その所領の大半を手中に収めた。さらに下野国那須郡の武茂氏を攻めて、これを従属させた。1567年永禄10年には、白河義親を攻め、これに大勝した。さらに1569年永禄12年には、手這坂の戦いにて、小田氏治に大勝。その居城・小田城を占領した。

関東に覇を唱える北条氏政が1571年元気2年、会津の蘆名盛氏、下総の結城晴朝らと同盟を結び、佐竹氏に従属する多賀谷政経を攻めた。義重は、多賀谷へ援軍を贈り、北条侵攻を阻止した。

1572年元亀3年、義重は、白河結城氏を配下に従わせ、奥州への領土拡大を展望した。さらに福島磐城の岩城氏と縁戚関係を持ち、佐竹氏の傘下に収めた。

下野国那須氏とも香和えを結び、領国の後顧の憂いを断った。

1573年天正元年には、北条方に寝返った小田氏治と再度、干戈を交え、その所領の大半を併合するに至る。その余勢をかって、1575年天正3年、白河城を占拠し、領土拡大を成す。

後北条氏は、この佐竹氏の急拡大に危機感を懐き、会津の蘆名氏と呼応して、佐竹氏へ二方面攻勢をかけた。義重は、結城氏、宇都宮氏と姻戚関係を結び、同盟すると北条方への対抗とした。

1580年天正8年、宿敵・蘆名盛氏が死去し、盛隆が家督を継ぐと、にわかに両家の緊迫が薄らぐ。1581年天正9年、御代田合戦において、義重は、蘆名氏と敵対している田村清顕を破った。同年10月には、義重が蘆名氏の居城・黒川城へ訪問を果たし、蘆名盛隆と交友を深め、両家の同盟関係が成立する。

これにより福島伊達領より南側に位置する会津・仙道(福島仲通り)・海道(磐城方面)が佐竹氏傘下となり、南奥州の統一を形成した。

だが、1585年天正13年、下野国へ侵攻した北条軍の猛攻によって、長沼城を奪取され、不利な戦況の中、和睦を強いられた。沼尻合戦。

後北条氏の攻勢に苦慮する義重にさらなる強敵・奥州伊達氏が立ちはだかることと成る。奥州の雄・会津の蘆名氏は、名君と名高かった盛氏死後、当主が次々と早世したため、勢力を急激に衰退させていった。幼少の蘆名亀王丸が蘆名氏の家督相続に就くにあたり、義重はいち早く、これに賛同し、伊達輝宗が次男の小次郎を蘆名家へ送り込むことを阻止した。

義重は蘆名家中への影響力を強め、奥州福島の仕置きにおいて、伊達氏と抗争するようになる。伊達家を継いだ伊達政宗は、田村清顕の娘婿であり、先に佐竹氏と田村氏の間で起こった御代田合戦の一件があったことから、伊達・田村氏の連合と佐竹氏の対決姿勢が鮮明化していった。

1585年天正13年、伊達氏と対立する二本松氏への救援目的で義重は、蘆名氏と連合軍を結成し、奥州仙道の地へと進軍する。人取橋にて伊達軍と会戦した。人取橋の戦い。兵力で勝る佐竹・蘆名連合軍は、前半戦は、伊達軍を圧倒したが、後半戦では、伊達軍の粘りの戦いに苦戦を強いられた。伊達軍撃破に手こずっている間に本国常陸にて、江戸氏らの反乱の噂が入ると、義重は決戦を諦め、撤退した。

この大会戦は、伊達政宗が生涯誇りとしたもので、後に将軍・徳川家光を饗応した政宗がその席で、かつての武勇伝を披露したという。

1586年天正14年、二本松城が開城し、二本松氏が滅亡すると、伊達氏と佐竹氏・蘆名氏の間で和議が成立した。

1587年天正15年、義重の次男・義広を蘆名氏の養嗣子に入れることで、佐竹氏の南奥州における影響力は最高値に達した。伊達政宗は、実弟・小次郎を蘆名氏家督を継がせようと目論んだが、義重に敗した。

1588年天正16年、義重は、南奥州の覇者を巡って、ついに伊達氏との決戦に挑む。この郡山合戦では、南奥州の諸将と結び連合軍を結成した義重に圧倒的優勢があったが、諸侯の利害対立が発生し、軍の連携が機能せず、義重は政宗を追い詰めるに至らず。岩城常隆の調停により、和睦する。

1589年天正17年、蘆名義広が摺上原の戦い(すりあげはらのたたかい)にて、伊達氏に大敗すると、にわかに伊達氏へと流れが変わる。白河結城氏、石川氏など諸将が伊達氏へ寝返ると、北から伊達氏、南から後北条氏の挟み撃ちの形となった佐竹氏は、危機的状況に陥る。

義重は、長男の義宣に家督を譲り、隠居するに至る。

1590年天正18年、かねてから懇意にしてきた豊臣秀吉が、小田原征伐を起こし、関東に出張ってくると、義重は義宣と共に小田原へ参陣し、豊臣軍に加わった。石田三成を総大将とする忍城攻めに参軍し、奮戦した。

小田原の役後は、そのまま豊臣軍の奥州仕置に従い、奥州平定に貢献した。秀吉よりその功績を評され、常陸国54万石の所領を認められ、関東の地に盤踞する。

秀吉の命もあって、義重は、常陸一国平定戦に粉骨する。常陸中部に根付く江戸重通を攻め、水戸城から追い出し、府中の大掾氏(だいじょうし)を滅ぼした。1591年天正19年2月には、鹿島・行方両郡の三十三館と称した鹿島氏など大掾氏一族ら国人領主たちを太田城に招いて、謀殺した。額田城の小野崎昭通を攻め、秀吉からの退城勧告を突き付けて、追放処分とした。これにより義重は、念願の常陸一国の統一を成した。

戦後、義重は、義宣に全権を委譲し、自身は太田城にて隠遁し、北城様と呼ばれた。

1600年慶長5年、関ケ原の役が起こると、子の義宣は、かねてから入魂であった石田三成が指揮する西軍に付与。

だが、時流を読む義重は、かねてから入魂の徳川家康が指揮する東軍付与を主張。この時、蘆名義広や佐竹義久ら佐竹家重臣たちは、義重の意見に同調した。義宣はこの対立のため、曖昧な姿勢で戦乱に臨み、結果として、改易の憂き目を見る。義重の嘆願により、改易を免れた佐竹氏は、出羽国久保田の地に20万石(実石高は、40万石)に減俸にとどまった。

久保田転封後、相次ぐ地元民の一揆に遭遇するも、義重は、隠居の身ながら、六郷城に入り、六郷町の町割りを指揮し、所領の南部方面の仕置きに辣腕を振るった。

1612年慶長17年、狩猟中に落馬がもとで死去。末子の義直は、義重死去後に生まれている。