さたけ よしのぶ

1570-1633 享年64歳。

幼名:徳寿丸

別名:次郎、常陸侍従

官位:従四位上左近衛中将、右京大夫

佐竹氏19代当主。

佐竹義重の長男。母は、伊達晴宗の娘。

伊達政宗とは母方の従兄にあたる。

佐竹義宣は、1570年元亀元年7月16日、常陸国太田城にて生まれた。当時、父・佐竹義重は、下野国那須郡を領する那須氏を攻めていた。

1572年元亀3年、那須氏と和睦し、その証として、那須氏当主・那須資胤の娘を義宣が娶ることとなった。

義宣は、1585年天正13年に初陣を果たしたとされる。

1586年天正14年~1590年天正18年の間に、義宣は、父・義重より家督を相続している。

1584年天正12年、佐竹氏は、後北条氏と和議を結び、領土拡充に努めたが、奥州の地においては、伊達政宗が蘆名氏の黒川城を陥落させ、佐竹氏の奥州進行をくじいた。

伊達氏との対決が先鋭化すると、義宣は、豊臣秀吉と通じ、さらに石田三成、上杉景勝と親交を得て、伊達氏に対して包囲網を築いた。

1589年天正17年11月28日、豊臣秀吉から小田原征伐に参軍するよう命令が義宣に下る。義宣は南郷にて伊達政宗と対峙していたが、秀吉の京都出立の知らせを受け、1590年天正18年5月、義宣は、宇都宮国綱ら諸将を伴い1万余の軍勢で小田原へ出立した。

小田原役後、奥州仕置を経て、義宣は、伊達政宗と争奪戦を繰り広げていた南奥羽の地を知行として、秀吉から認めてもらうに至る。

天徳寺所蔵 佐竹義宣像 参考:Wikipedia