もり たへえ

1556~1615

初めの姓は曽我、晩年の姓は毛利を称した。

通称:万助、多兵衛尉、太兵衛尉。

諱は友信。

但馬守

1569年、14歳にして、黒田官兵衛に仕えた。

1573年、初陣を果たし、その後、四半世紀に渡って、戦歴を重ねる。

黒田家古参の猛将。

1578年、主君・官兵衛が荒木村重説得に失敗し、幽閉されてしまうと

太兵衛は留守職中連署起請文に名を連ね、黒田家を支える重臣として活躍する。

官兵衛が生還すると、主君の下、再び各地を転戦する。

1585年には、四国征伐にも参軍し、軍功を重ねる。

1587年の九州征伐においては、豊前国生留津城攻めで一番乗りの華々しい戦功を挙げる。

官兵衛が豊前国に入ると栗山利安、井上之房と並び、家中筆頭に列し、六千石を喰む。

黒田二十四騎に名を連ね、朝鮮出兵では、先手の武将として戦った。

太兵衛の猛将振りは、豊臣秀吉が配下に欲しがったほどであった。

同じく猛将として名を馳せた福島正則から酒宴に招かれた太兵衛は、正則が秀吉から与えられた名槍「日本号」をかけて酒飲みを競い、見事、勝利してみせ、日本号を手中にしている。

1600年、関ヶ原の戦いでは、官兵衛と共に出陣し、西軍方となっていた豊前・豊後の諸城を攻略した。

関ケ原合戦後、黒田長政が筑前国へ入ると太兵衛は家中第一の臣として、一万八千石の大枚を食んだ。

鷹取城を任され、1606年に後藤又兵衛が出奔すると大隈城を任された。

江戸城天守台の石垣普請を黒田家が請け負うと太兵衛はその奉行を務め、文官としての才もいかんなく発揮した。

1615年、大隈城にて没した。

博多駅前に立つ母里太兵衛の銅像。大杯を片手に酒豪の猛将。
福島正則と酒飲み競争に見事勝利し、天下の名槍「日本号」を手にした逸話を持つ。