■平島公方(阿波公方)
10代将軍・足利義稙(よしたね)は、細川家の内紛に翻弄され、京を追われ、淡路を経て、四国へ渡る。徳島県鳴門市にある撫養(むや)にて没した。
義稙の養子・義維(よしつな)は、阿波国諸侯の後援を得て、実兄の12代将軍・足利義晴を近江に駆逐し、将軍を自称した。
義維は京に入れず、将軍就任を得られなかったが、堺を拠点としたため、、堺幕府と呼ばれた。
義維の子・義栄は、阿波国那珂川町平島に生まれたが、三好勢の支援を得て、京へ上り、14代将軍の将軍宣下を得て、念願成就を果たす。
だが、義栄政権は長くは続かず、岐阜より発した織田信長軍が従兄弟の足利義昭を担いで、京に押し寄せてくると、義栄は、防ぎきれず遁走。摂津の地にて没した。
義栄の弟・義助の子孫が阿波国那珂川町平島(あわのくになかがわちょうひらしま)に戻り、平島(阿波)公方と呼ばれた。
阿波三好の勢力に攻め込んだ長宗我部氏は、平島公方の領地には手を付けずそのままとした。
その後、四国征伐を起こした羽柴秀吉は、阿波へと攻め込み、蜂須賀氏が支配した。
蜂須賀氏は、平島公方を特別視せず、冷遇し、姓も足利から平島に改めさせた。
その後も平島公方は、江戸時代を通して、平島の地に住み、徳島藩の支配の下にあった。
1805年、第九代阿波公方・平島義根(ひらしまよしね)は、藩からの扶持の増加を嘆願したが、聞き入れてもらえず、冷遇に耐えきれず、阿波国を出奔した。
紀伊を経て、京へ入り、足利家の菩提寺・等持院(とうじいん)の世話になる。
明治に成って、平島氏は京にあったが、爵位を与えられるべく運動したが、南北朝時代に北朝を支援した足利一族への悪感情などから願いは聞き入れてもらえなかった。