豊臣秀吉が1590年に起こした小田原征伐の際、戦場をド派手な格好で勇猛果敢に駆け巡り、衆目を集めた武者がいた。甲冑にたくさんの鈴をつけ、金箔を貼り付けた甲冑は、敵味方入り乱れる中でも一際目立ったという。

秀吉が何者かと側の者に尋ねると、九州征伐の際、軍目付にして、采配の不手際により島津軍に完敗した仙石秀久であった。讃岐領国を没収され、浪人からの参軍であった。

秀吉は派手好みであったことから、秀久の帰参を許し、武功を褒め称え、信濃国小諸に5万石を与え、再び大名に取り立てた。

 

四国征伐を成した秀吉は、秀吉に降伏した長宗我部氏に土佐本国のみを安堵とし、その他の四国の地は、秀吉軍の功臣に分配した。伊予は秀吉お気に入りの智将・小早川隆景に与えた。阿波は長年、秀吉軍を支えてくれた股肱の臣・蜂須賀小六正勝の嫡子・蜂須賀家政に与えた。

讃岐は久しく領国を支配していた十河存保に東部を任せ、残りの西部は、四国征伐で淡路にて長宗我部軍と最前線で対峙した仙石秀久に与えた。