■四国の名門一条氏

土佐国の南西の地は、土佐中村と呼ばれ、平安時代荘園領主の時世に五摂家の一条氏宗家が領した土地だった。荘園時代にこの地に移り住み、長年支配し土着化した。

土佐中村の荘園で対明貿易で財を成したのは、一条教房という人物である。

教房の父は、一条兼良(いちじょうかねよし)で、京にて関白太政大臣を勤めた。

兼良は応仁の乱が起こると南都興福寺に移り住み、嫡男の教房を土佐荘園の管理へ向かわせた。

現地の土佐中村では、大いに民衆に慕われたとされる。

 

京では教房の弟の冬良(ふゆよし)が跡目を継いだ。教房は53歳で土佐の地でもうけた子があったが、教房は、遺言で仏門に入れることを望んだ。しかし、国人領主たちは土佐統治を望み、1494年、子は元服して、房家(ふさいえ)と名乗り、左近衛少将(さこんえのしょうしょう)に叙任された。

 

1516年、、房家の子・房通(ふさみち)が京の一条宗家の跡目を継ぐことになった。房家は房通を連れ、京へ凱旋を果たし、自らも権大納言となり、田舎公卿のそしりを払拭させた。

房家の金満家振りは、戦乱で没落した都公家たちの鼻をあかすほどであったという。

 

室町時代の土佐国の守護は、京兆(けいちょう)細川家であった。細川一族の者を土佐に守護代として派遣していたが、応仁の乱で中央政府が混乱をきたすと、土佐統治も不十分となる。そのため、守護所に近い長岡郡岡豊城(ながおかぐんおこうじょう)(現在の南国市)に本拠を置いた長宗我部氏が勢力を台頭させてきた。

 

土佐国における長宗我部氏の台東は、土佐諸侯の脅威となり、連合による追討戦が起こる。

1508年、吾川郡(あがわぐん)の本山氏・吉良氏、香美郡(かみぐん)の山田氏、高岡郡(たかおかぐん)の大平氏(おおひらし)ら連合軍は、長宗我部氏を攻めた。

長宗我部家当主・兼序(かねつぐ)は、岡豊城にて自害したとも、敗走し、子の国親に家督を譲り隠遁したとも伝わる。

遺児となった国親は、一条房家に庇護され、房家は国親を養育して、岡豊城へ復帰させている。房家はこれに乗じて、高岡郡の国人領主たちの争いに介入し、郡内統治の実権を握った。

 

その後、一条氏は、名門のブランド力を活かして、周防の大内氏や豊後の大友氏と縁組を結び、伊予国宇和郡の西園寺氏を攻めた。

一時の隆盛を極めた土佐一条氏であったが、土佐国では、長宗我部氏の勢力拡大が再び、起こる。西部の安芸氏を滅ぼし、東部の一条氏を凌駕し始めた。

さらに1574年、一条房通の子・兼定(かねさだ)が暗愚であったため、家臣たちから追放の憂き目を見る。兼定の跡目を継いだ内政(ただまさ)は、長宗我部氏の居城に身を寄せた。

兼定は、岳父の大友宗麟を頼り、宗麟のススメでキリシタンに改宗している。土佐復帰を望んで挙兵したが、願い叶わず。

長宗我部氏の庇護を受けた内政は、長宗我部元親の娘婿となり、それなりに厚遇を受けたが、内紛に関与して、その身を追放された。内政の子・政親(まさちか)は、関ヶ原の戦いの後、畿内に移り住んだが、その後の消息は不明である。

 

■長宗我部 元親

土佐統一を成し、四国制覇に向けて、覇を唱えた土佐の雄・長宗我部元親。

土佐統一後は、阿波国攻略を手掛け、伊予国、讃岐国まで侵攻した。

元親は、畿内を掌握した織田信長とも誼を通じ、四国制覇後の安全保障の保全に対策を講じた。織田家中随一の重臣・明智光秀を窓口とすべく、明智の重臣・斎藤利三と入魂と成り、利三の妹を妻に迎えている。

信長は、元親の近づきに関して「元親は、鳥なき島の蝙蝠(こうもり)である」(大したことはない存在だが、他の大名たちが弱いので元親は領土拡大できているのだ)と低評に見ていた。

だが、とりあえずは、誼を求めていることだし、伊予の領国争いで、毛利氏と対立する分には、敵の敵は味方として、信長は、元親の一定の勢力拡大を容認していた。

 

元親の遠方外交は奏効しそうに見えたが、讃岐国の十河氏ら三好一派が、ついに織田信長に泣きついてくると、信長は、彼らを受け入れた。三好一派は長年、畿内および四国西部と瀬戸内海に多大な影響力を持ってきたため、彼らには大いに利用価値があったからだ。

そのため、明智光秀の諫言を受け入れず、領地召し上げ、石見切り取り次第の移封という極端な仕打ちにまで及ぶ。

信長は、四国攻め部隊を編成する。

神戸信孝(かんべのぶたか)、丹羽長秀、津田信澄らに長宗我部追討を命じた。

四国攻め部隊は大坂に集結し、渡海する手はずであったが、そこに本能寺の変が起き、四国攻めは中止と成った。

その後、元親は、伊予国の河野氏を屈服させ、念願の四国統一をほぼ成した。

だが、この頃に成ると、羽柴・毛利両氏は友好関係となっており、伊予の河野氏、讃岐の三好氏らは、羽柴・毛利両氏に救援を求め、長宗我部氏は孤立無援の状態となっていた。

羽柴・毛利両軍が怒涛の勢いで四国に攻め入ると、長宗我部氏は成すすべもなく降伏し、土佐一国安堵となる。

豊臣政権に組み込まれた長宗我部氏は、九州・小田原征伐に従軍している。

九州征伐では、豊後国戸次川の戦い(ぶんごのくにへつぎがわのたたかい)で、嫡男・長宗我部信親を失い、元親は失望の余生を送ることと成る。

元親は、居城を岡豊城から高知に移したが、治水工事の未熟さで、断念する。

海岸寄りの浦戸を仮の居城とした。

 

元親の跡目を継いだ盛親は、1600年関ヶ原の戦いで西軍に属し、戦後、改易と成った。盛親は、糊口をしのぐため、京にて寺子屋を経営した。

大坂の役が起こると、盛親は、豊臣方として参陣し、土佐領国の失地回復を狙ったが、大坂夏の陣にて、敗北し、捕らえられて、六条河原にて無念の斬首となった。

 

■山内 一豊

関ケ原合戦後、西軍についた長宗我部氏は改易となり、代わりに掛川城主・山内一豊が転封してきた。掛川城主から大幅な加増での土佐の地への栄転であった。

関ケ原合戦前に率先して、徳川家康に居城を明け渡して全面協力を申し出たことが奏功した。

土着性の強い土佐の地に新参者である山内氏の入府は、現地に大いなる混乱を巻き起こすものと思われた。一豊は入封後の現地の反乱を警戒し、先手を打った。

土佐入国後、土豪たち273名を浦戸城内に招待し、歓待すると偽って、集めるとその場で彼らを斬首した。名家老・野中兼山(のなかけんざん)は、討ち取った土豪たちの残党に対して、寛大な処置を取り、未開の地の開拓に当たらせ、彼らを郷士の身分として、召し抱えた。

山内氏直臣の家臣と土佐から旧態のまま土着していた土豪たちは、郷士の身分として、明確な仕分けがなされた。