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日本の戦国時代における年貢制度の詳細
戦国時代(1467年~1615年)は、全国的な戦乱が続く中で、各地の戦国大名が独自の領国経営を行っていました。その中心的な経済基盤が、農民から徴収する年貢(ねんぐ)でした。年貢は、戦国大名や領主にとって軍事力を維持するための資金源であり、領国経済を安定させる重要な柱でした。年貢の割合や徴収方法は大名によって異なり、その効率性や公平性が領国の繁栄や衰退に大きな影響を与えました。
以下では、戦国時代の年貢の仕組み、徴収方法、具体的な割合、代表的な事例、年貢の用途、年貢に対する農民の対応について詳しく解説します。
1. 年貢の基本的な仕組み

年貢とは、農民が領主に納める義務のある税の一種で、主に米や雑穀で徴収されました。戦国時代の年貢制度は、大名がその領地を直接支配する「領国制」の中で発展し、各地で独自のルールが整備されました。
1-1. 年貢の対象
- 農地からの収穫物: 米が中心でしたが、地方によっては麦、粟、稗(ひえ)、大豆などの雑穀も年貢として納められました。
- 副業収益: 漁業や林業、手工業などの副業からの収益も一部、年貢の対象になる場合がありました。
1-2. 徴収基準
- 検地: 戦国大名は、領内の農地の生産力を正確に把握するために「検地」を実施しました。検地では、田畑の面積や収穫量を調査し、それに基づいて年貢の額を決定しました。
- 太閤検地: 豊臣秀吉が実施した「太閤検地」は、全国的な土地制度を整備し、年貢徴収の公平性を高めた重要な政策です。
1-3. 年貢の単位
- 石高制: 年貢の徴収基準は、土地がどれだけの米を生産できるかを示す「石高(こくだか)」によって測られました。
- 1石は、成人男性1人が1年間に必要とする米の量とされ、約150kgに相当します。
- 田畑ごとに石高が割り当てられ、これが年貢額の基準となりました。
2. 年貢の割合と具体的な徴収例

年貢の割合(収穫に対してどれだけ納めるか)は、大名や地域、農地の条件によって異なりましたが、以下が一般的な基準です。
2-1. 年貢の割合
- 四公六民(しこうろくみん): 収穫物の40%を年貢として納め、残りの60%を農民が自らの生活や種籾の確保に使う方式。比較的穏やかな徴収とされました。
- 五公五民(ごこうごみん): 収穫物を半分ずつ分ける方式で、戦国時代には一般的でした。農民にとっては厳しい負担となる場合もありました。
- 六公四民(ろっこうしみん): 収穫物の60%を年貢として納める高い割合。戦乱の激しい地域では、軍事費を賄うためにこのような高い年貢率が課されることもありました。
2-2. 具体的な事例
- 甲斐国(武田信玄):
- 武田信玄は領内で積極的に検地を行い、収穫量に応じた年貢を課しました。彼の統治では「五公五民」が標準とされました。
- 信玄堤による治水事業で農地が守られ、生産量が安定したため、年貢収入も増加しました。
- 越後国(上杉謙信):
- 上杉謙信は、農民に過剰な負担をかけないために「四公六民」を基本としました。彼の領国経営では農民の支持を得ることを重視していました。
- また、豊作時には一時的に年貢の軽減措置を取るなど、柔軟な政策を展開しました。
- 出雲国(尼子氏):
- 出雲国では「五公五民」が標準でしたが、戦乱が激化するにつれて一時的に「六公四民」に引き上げられることもありました。
3. 年貢の徴収方法

年貢は主に以下のような方法で徴収されました。
3-1. 現物徴収
- 米や雑穀を直接納める方式が主流でした。特に米は保管や輸送がしやすく、大名や家臣への俸禄(ほうろく)として配分されました。
- 戦国時代には、年貢として集めた米を「兵糧」として蓄え、合戦に備えることが重要でした。
3-2. 労役
- 年貢の一環として、農民が労働力を提供することもありました。堤防の建設や城の築城、道路の整備などが代表的な労役の内容です。
3-3. 貨幣での納付
- 商業が発展した地域(例: 堺、京都など)では、米や雑穀の代わりに貨幣で年貢を納めるケースもありました。
4. 年貢の用途

徴収された年貢は、主に以下のような目的で使用されました。
4-1. 軍事費
- 年貢の多くは兵糧や武器の購入に充てられ、戦国大名の軍事力を支える基盤となりました。
- 大名たちは、領内で安定した年貢を確保することで、長期の戦闘や遠征を維持できました。
4-2. 行政費用
- 城や街道の整備、堤防や灌漑施設の建設など、領国のインフラ整備にも年貢が使われました。
4-3. 大名の生活費
- 大名やその家臣の生活を支えるための財源としても重要でした。年貢の配分が不公平になると、領民の不満を招く要因となりました。
5. 年貢に対する農民の対応

戦国時代の農民は、年貢の負担を軽減するため、さまざまな対応を行いました。
5-1. 逃散(ちょうさん)
- 年貢が過酷になると、農民が土地を捨てて逃げ出すことがありました。これにより、大名の領地経営が困難になるケースもありました。
5-2. 一揆の発生
- 年貢の重圧に耐えられなくなった農民たちは、領主に対して集団で抵抗する一揆を起こすことがありました。
- 代表例: 一向一揆は宗教的背景を持ちながらも、年貢や重税への反発が一因とされています。
5-3. 隠し田の利用
- 農民は、検地の対象とならない「隠し田」で収穫物を隠し、年貢を逃れることもありました。
6. 戦国時代の年貢制度の意義と影響

戦国時代の年貢制度は、単に経済基盤としての役割にとどまらず、戦国大名の統治力や農民の生活を大きく左右する存在でした。
- 大名の領国経営: 年貢収入を安定させることは、大名が軍事力を維持し、領国を繁栄させるために不可欠でした。
- 農民の暮らし: 年貢の負担が軽減されることで農民の生活が安定し、大名への忠誠心が高まるケースもありました。
- 近世への影響: 戦国時代の年貢制度は、後の江戸時代における石高制や農業経済の基盤を形成しました。
結論
戦国時代における年貢制度は、戦国大名の領国経営にとって欠かせない要素であり、同時に農民の生活を大きく左右しました。年貢の割合や徴収方法は大名ごとに異なりましたが、その運用が適切であるほど領国が繁栄し、不適切である場合には領国の衰退や一揆の発生を招きました。この時代の年貢制度は、戦乱の中での地域統治の知恵を示すものであり、後の時代の税制や経済政策にも深い影響を与えています。
