北条 氏政
ほうじょう うじまさ
1538-1590
享年53歳。


名称:乙千代丸、左京大夫、相模守
居城:相模小田原城


■関東屈指の名将・北条氏康の嫡男
  として誕生。
  幼き頃より、平凡な振る舞いをして
  、父・氏康より将来を危ぶむ酷評を
  聞きつつ育つ。

■1559年、22歳になった氏政は、父・
  氏康より家督を譲られ、後北条家
  四代目当主となる。
  隠居の身となったとは言え、実際に
  は、氏政を後見しつつ、実質的な北
  条家の頭領は依然として父・氏康で
  あった。
  関東屈指の名将である父・氏康に平
  凡な将・氏政はただただ従うだけで
  あった。

■氏政が家督を継いで間もない1560年
  、越後の虎・長尾景虎が関東管領に
  就任。
  上杉姓を名乗り、上杉政虎と名乗る。
  関東武士に集結を呼びかけ、関東に
  進出してきた。
  北条氏打倒の旗を押し立て、12万も
  の大軍を率いた上杉軍は、北条氏の
  居城・相模小田原城に攻め寄せて
  きた。
  しかし、父・氏康は氏政に河越城で
  徹底抗戦を指示。大軍を擁した上杉
  軍が食料難になって自滅するのを待
  つ作戦に出た。
  上杉軍は篭城して一切、決戦を挑ま
  ない北条軍を散々にののしりながら
  撤退を余儀なくされ、本国の越後へ
  戦果なく退いた。

■その後も謙信は、再三に渡って、関東
  の地へ軍馬を進めたが、氏康は、越
  後勢が出張れば、退き篭城し、越後
  勢が退けば、出張るという徹底した
  翻弄戦術で謙信を悩ました。

  軍神と恐れられた謙信とまともに決
  戦を挑めば、さしもの氏康とて敗北
  を免れないため、篭城戦と敵の隙を
  突く巧みな戦術で関東の地を徐々に
  席巻していったのである。

■1564年には、房総の雄・里見義弘と
  第二次国府台合戦にて勝利を収め
  、氏康は念願の房総半島への勢力
  拡大を果たしている。

■房総半島侵攻の足がかりを掴んだ
  氏政は、後顧の憂いを除くべく、江
  戸衆の再編成を断行し、反北条氏
  の動きを見せている太田康資を追
  放処分とし、組織団結を成した。

  ついで、氏政は岩付城の太田資正
  ・氏資父子を攻撃。北条氏の猛攻
  にたまりかねた氏資が音を上げて
  北条氏に内通すると、資正は上総
  国へと逃れた。
  侵略の手を緩めない氏政は、休ま
  ず資正を追撃し、上総国へ攻め込
  むと、10月には上総国のほぼ全土
  を制圧するに至った。

■1568年、落ち目となった今川氏を
  侵略した武田信玄は、一気に駿
  河を抜く快進撃を続けた。
  氏康の娘婿である今川氏真は、
  北条氏に救援を要請し、これに
  応じた北条氏は氏政が率いる救
  援軍を三島まで進軍させたが、時
  すでに遅く、武田軍は今川氏の本
  拠地・駿府に乱入し、氏真は懸川
  城へと逃れていた。

  この時、氏康の娘・蔵春院は、徒
  歩で駿府を脱したという。
  これを聞いた氏康は激怒。氏政の
  妻に迎えていた武田信玄の娘・黄
  梅院を甲斐に送り返してしまう。
  こうして、1554年以来、北条・今川
  ・武田の三家で取り交わした相駿
  甲三国同盟は、今川義元の戦死と
  いう劇的な要素と氏真の無能という
  要素により、完全に崩壊したので
  ある。

■1569年1月になると、氏政は軍兵率
  いて駿河に入り、武田軍と長期に渡
  って対陣する。
  同年4月に入り、長期の対陣に痺れ
  を切らした武田軍は、得るもの無し
  として、甲斐本国に撤退した。
  氏政は、実子の国王丸(のちの氏直
  )を亡国の当主・今川氏真の養子と
  して、統治能力を完全に失った今川
  氏に代わって駿河支配の実権を奪
  取した。

■曾祖父・北条早雲以来、ゆかりの深い
  駿河の地を踏んだ氏政は、強敵・武田
  信玄の動きを封じ込めるべく、それま
  で敵対してきた越後の上杉謙信と越相
  同盟を結んだ。
  両者は、協力して強敵・武田氏に当た
  ることを確約し、関東の地はしばらくの
  間、越後勢からの侵攻を免れるに至っ
  たのである。

■武田信玄は、北条氏の一角を崩して関
  東へ軍馬を進めるべく進軍し、北条方
  の武蔵鉢形城を包囲した。
  この時、謙信は同盟の盟約を守らず、
  北条氏を援護する軍を動かさなかった
  ため、北条氏は独力で武田軍と戦わざ
  るを得なくなる。

  北条氏の御家芸、徹底篭城戦術により
  、武田軍は北条氏の領土を取り崩せず
  、撤退すると氏政は、篭城から一変、
  武田軍を追撃し、三増峠で武田軍を撃
  破している。

  以後、氏政は度重なる武田軍の関東
  侵攻戦を耐え凌いで、危機を脱して
  いる。
  父・氏康が没すると形ばかりの同盟の
  上杉氏との同盟を破棄し、武田氏との
  同盟を締結。
  甲相同盟を結び、本拠地の伊豆・相模
  の地に平穏をもたらした。
  上杉氏との同盟破棄は氏康の遺言と
  もいわれているが、とにもかくにもこれ
  により、再び関東の地は越後勢の軍馬
  が駆け巡る戦乱状態へと移っていく。

■1573年、西上を開始した信玄に対し、
  氏政は関東一円への勢力拡大に必至
  となっていた。
  そんな中、信玄が急死。武田氏の軍事
  活動が一時停滞すると、上杉謙信は上
  野に出兵し、武田の属城に攻め込ん
  だ。
  武田氏と同盟を結ぶ北条氏は、武田氏
  を助けるべく、援軍を上野に派兵。
  上杉軍を牽制した。

■1577年、武田家を継いでいた武田勝頼
  は、先の1575年に長篠の戦いにて織
  田・徳川連合軍に大敗を喫して、勢力
  が衰えており、関東一円に勢力を拡大
  していた北条氏と親交を深め、守備固
  めに徹すべく、勝頼の妻に氏政の妹を
  迎え、同盟の強化を図った。

■しかし、勝頼の北条氏頼みのこの外交
  戦術は勝頼の無謀な行動により破棄
  へと至る。
  それは、1578年、急死した上杉謙信の
  跡目をめぐって、上杉景勝と上杉景虎
  の家督争いが起こると勝頼はこれに介
  入し、景勝を支援した。
  上杉景虎は、北条氏康の七男で氏政
  の実弟であり、謙信の養子となって
  いた。
  そのため、北条氏は景虎を支援して
  いたが、結局、1579年に景勝が勝利を
  収め、景虎は自刃した。
  勝頼が景勝を支援して、甲越同盟を締
  結したことで氏政は激怒し、甲相同盟
  を破棄したのである。

■その後、氏政は、武田・上杉両氏と対抗
  すべく、東海の雄・徳川家康と同盟を
  締結。
  ともに武田氏討滅の軍事行動を起こ
  した。
  1580年、42歳となった氏政は、嫡男・
  氏直に家督を譲り、後北条五代の栄華
  を迎えた。
  隠居の身となった氏政であったが、父・
  氏康と同じように若き大将・氏直の後
  見を勤めつつ、北条氏の実権を握っ
  た。

■1582年、北条氏と代を超えて長年に渡
  る同盟、と抗争を繰り広げてきた甲斐
  武田家が織田・徳川の総攻撃にあい、
  滅亡すると甲州の地を奪取した織田氏
  が北条氏攻めに取り掛かってきた。
  織田軍の関東攻め総大将は滝川一益
  で上野を本拠として、関東に進軍。
  北条氏と対陣するに至る。
  しかし、同年6月に本能寺の変で織田
  家の頭目・織田信長が倒れるとその知
  らせに浮き足立つ織田軍を見て、北条
  軍は総攻撃を開始。
  退却中の織田軍を急襲した北条軍の
  大勝利となり、織田軍の侵攻をかろうじ
  て防いだのである。

■その後、中央政権の混乱の中、武田家
  遺領をめぐって、徳川、北条氏の死闘
  が繰り広げられた。
  甲州の地を支配した織田氏が旧武田
  氏の反乱により、統治力を失うと、徳川
  氏が甲州の地に侵攻。
  北条氏政も遅れをとるまいと大軍を甲
  州の地に派兵し、甲州は徳川軍、北条
  軍が入り乱れる争乱状態に陥った。
  甲州の地でかろうじて独立を守ってい
  た小勢力の真田氏の付属をめぐっても
  徳川、北条両氏は争った。

  結局、甲斐、信濃の二カ国を徳川氏が
  統治し、武田上野国領を北条氏が統治
  することで決着がついた。

■後北条氏開祖以来、最大の領土を築い
  た氏政であったが、ほぼ天下全土を領
  有するに至っていた秀吉から北条氏へ
  使者が遣わされて来た。
  勝手な争いをしてはならないという朝
  廷の勅命を秀吉が代行して、北条氏へ
  送りつけてきたのである。
  秀吉は無位無官の小者から今では天
  皇に仕える一番の臣下である関白職
  に就いていた。
  朝廷の権限を傘に着て、全国の諸大
  名に取り決めを定めたのである。
  しかし、中央政権の力量を知らない北
  条氏はこの取り決めを軽んじ、信濃真
  田氏が拠る・上田城を攻撃した。
  この北条氏の勝手な軍事行動に憤激
  した秀吉は、小田原征伐を決定した。
  20万もの大軍を率いて、北条氏が拠る
  小田原に迫った。
  氏政は、北条氏の御家芸である徹底
  篭城戦術で応戦。かつて12万の大軍
  で小田原に押し寄せてきた上杉軍が
  2が月も立たずして兵糧不足に陥り、撤
  退を余儀なくされたことを想定して、
  1年以上も篭城できる兵糧を小田原城
  に入れ、長期の篭城で豊臣軍を斥けよ
  うとした。
  しかし、氏政ら北条氏の考えは甘かっ
  た。20万の大軍を率いてきた秀吉は、
  石田三成をはじめ、有能な後方支援部
  隊を巧みに組織して、全国津々浦々か
  ら大量の食料を小田原に海路運び込
  んできていた。
  20万の大軍が2年以上、小田原に滞在
  できる莫大な量の兵糧であった。
  1ヶ月経っても、2ヶ月経っても一向に
  小田原城の包囲を解かない豊臣軍に
  氏政をはじめ、北条の将兵は首を傾げ
  、焦りに焦った。
  そのような中、秀吉は茶臼山に密かに
  城を築かせ、2ヶ月足らずで見事な三
  層の天守閣を持つ巨大な山城を築か
  せ、完成すると城周囲を覆う木々を伐
  採し、小田原城からよく見えるように
  した。
  これを見た北条方は、大いに驚き、一
  夜にして巨大な山城を築いた秀吉は、
  天狗か神かと恐れおののいたという。
  こうして3ヶ月もの長い篭城を経て、つ
  いに北条氏は降服。
  秀吉の厳罰な処分により、豊臣軍と徹
  底抗戦を主張した北条氏政と氏照兄弟
  を自刃させた。
  氏政、享年53歳。

  ここに後北条氏は五代のおよそ百年の
  永きに渡る関東での栄華に幕を閉じた
  のであった。
  北条家五代目当主・北条氏直は、家康
  の娘婿ということで助命され、高野山に
  出家することとなった。
  哀れ関東最大の大名として天下屈指
  の勢力を誇った北条氏は、秀吉に一敗
  地にまみれただけで、栄華から没落へ
  と悲運な末路をたどったのである。
  これを見るに忍びなかったのか、秀吉
  はまとまった金銀財宝を氏直に与え、
  護衛の兵数も増員させて、高野山に旅
  行く氏直を見送っている。

■”二度汁の嘆息”で父・氏康から情勢を
  見極める眼力と生き残るための決断力
  に欠くと非難されながら、氏康没後、す
  ぐれた采配振りを発揮して、関東一円
  に北条氏最大領土を築いたという点で
  は、氏政も有能であったと見るべき
  だろう。
  だが、一度の失態が重みを増すという
  政局の流れをしっかりと見極めること
  ができなかった
  ことが北条氏の栄華を没落へと導く結
  果となったことは、確かであり、その点
  では氏康が嘆息しただけの器からその
  後、成長することができなかったという
  ことである。