しまづ とよひさ
1570-1600
享年31歳。


名称:豊寿丸、又七郎、忠豊、中務大輔、
    侍従
居城:日向佐土原城


■長吉島津家当主。
  父・家久(※義弘の子・忠恒のこと)の
  長男で島津家の貴公子。

■祖父・義弘譲りの猛勇振りを現し、朝鮮
  の役で老齢な祖父・義弘に代わって陣
  頭指揮を取った。

  特に1597~98年にかけての明軍との
  戦いでは目覚しい働きを見せ、明の大
  軍に包囲され身動きが取れないでいた
  加藤清正の軍救出を敢行し、毛利・黒
  田軍とともに怒涛の勢いで押し寄せる
  明軍相手に一歩も退かない勇戦を見
  せた。

  島津軍が常に勤めた殿軍では、豊久
  は薩摩隼人の血潮がみなぎる大活躍
  を現した。

■1600年、関ヶ原合戦では、祖父・義弘と
  ともに手勢の島津軍を率い合戦を
  傍観。
  東軍勝利がほぼ決まると島津軍は前
  代未聞の前方に戦場離脱を敢行。
  徳川家康本陣の真横を突っ切る大胆
  な戦術を展開し、徳川軍を侮蔑した。

  怒る徳川軍の追撃隊を振り切り、祖父
  ・義弘が率いる本隊を逃がすべく豊久
  は、戦場に踏みとどまり力戦。
  島津軍の御家芸である殿軍の真骨頂・
  ステガマリ戦法を駆使して、徳川追撃
  隊を各個撃破。

  本多忠勝の愛馬を鉄砲で打ち抜き、忠
  勝を戦場に転がすと、徳川軍の精鋭部
  隊”井伊の赤備え”を率いる井伊直政
  に銃撃を浴びせ重傷を負わせた。

  次いで、関ヶ原合戦の口火を切る名誉
  を取った家康の四男・松平忠吉までも
  が島津軍の毒牙に倒れ重傷を負うなど
  豊久は、本当に殿軍か?と思わせるほ
  どの戦果を挙げ、存分に敵に被害を与
  えた。

  しかし、多勢に無勢が祟って、豊久も
  壮絶な戦死を遂げた。
  享年31歳。