長束 正家
なつか まさいえ
1555?-1600
享年46?歳。

名称:新三郎、大蔵少輔、従四位下、侍従
居城:近江水口城

■当初は丹羽長秀・長重父子に仕えた。
1585年、主君長秀が狂気の沙汰に没
すると、嫡子・長重は力量なく100万石
を誇った丹羽家は、秀吉の政調で瞬く
間に石高を削られ、5万石の小名にま
でなる。

主君・長重の無能さに見切りをつけた
正家は1585年にあっさりと丹羽家を
出奔し、秀吉に仕えた。
その事務手腕を高く評された正家は、
秀吉政権内で7奉行の一人に列した。

■1589年11月には、小田原攻めのため
の兵糧準備という大役を命ぜられ、見
事20万石以上の兵糧を準備。
20万の大軍を1年半分の兵糧を準備
し、そのすぐれた事務手腕を発揮した。

■1591年1月には、増田長盛とともに近江
を検地し、太閤検地の統制に参画
した。

■1592年、文禄の役では正家は肥前名
護屋城まで赴き、兵糧や船団などの維
持管理に奔走した。
1594年の春には、伏見城築城工事に
携わった。

1595年にこれら一連の功績により、正
家は近江水口城を与えられ、4万石と
なり、その後、12万石へと加増された。

■1598年、越前国を検地するなど正家は
豊臣政権の有能な事務官として活躍
した。
1600年、関ヶ原の戦いでは正家は西
軍に属し、伊勢口を固め、安濃津城攻
撃に参軍。

関ヶ原決戦では南宮山に陣を張った
が、南宮山の麓に陣取る吉川広家の
部隊に行く手を阻まれ、合戦に参加
できず。
西軍が大敗に喫すると正家は居城へと
帰った。

同年10月3日、正家は池田長吉に欺か
れて城を出ると行き場なく近江桜井谷
にて自刃して果てた。