たいげん せっさい

1496-1555 享年61歳。

■別名:崇孚(すうふ)

戦国時代の軍師僧である。

駿河・遠江・三河を領した名門・今川氏に仕え、今川義元の軍師として活躍した。

父は駿河国庵原城主・庵原政盛(左衛門尉)。母は興津横山城主・興津正信の娘と伝わる。

庵原氏、興津氏はともに今川氏の譜代の重臣の家柄であった。

死後、後奈良天皇から宝珠護国禅師を諡された。

1522年、雪斎が今川義元と初めて会う。義元は善徳院(現在の臨済寺)に入寺した。今川氏親の跡目としては、候補から外れていたため、僧籍とならざるを得なかったのである。

義元は承芳と名乗り、1525年、1533年と二度に渡り、上洛し、京都や奈良の寺院に留学した。雪斎はそのお供を勤め、共に学僧として学んだ。

1536年、義元の兄で今川家当主の氏輝が急死した。次の継承権を持つ彦五郎も同日に死去するという風雲急を告げる事態となり、雪斎は、根回しをして、義元を

今川家当主にすべく奔走する。

氏輝、義元の実母で今川家に強い発言力を持っていた寿桂尼が雪斎と示し合わせて、義元を支援した。

義元が家督相続に着くなり氏親の三男で義元の異母兄である玄広恵探が反義元勢力を率いて反乱を起こすに至る。

花倉の乱が引き起こると、雪斎は、花倉館に籠城した玄広恵探を攻め、これを自刃に追い込んだ。

義元は雪斎を厚く信頼し、政治・軍事の国政における最高顧問にして、徴用した。

雪斎は、外交面においても、国政安泰のために奔走した。

義元の父・氏親の代から関係が悪化していた甲斐の武田氏と姻戚関係を結ぶことで、甲州からの進出を押し止める策を講じる。

武田信虎の娘・定恵院を義元の正室に迎える政略結婚をまとめることに成功する。

この駿河護衛の施策は、成功したかに見えた。しかし、長年、同盟関係にあった後北条氏がこの姻戚関係の成立に色めき立つ。

後北条氏は、今川氏から派生して独立した格下の家柄出自であったがため、主君筋の今川氏がいつ伊豆・相模へ討ち入るかわからなかったのだ。

甲斐の武田氏と姻戚関係を結び、新たな同盟関係を築いたことは、今川氏、武田氏が示し合わせて、一気に両軍が伊豆・相模へ雪崩を打って攻め込んでこないとも限らない。

このため、後北条氏は、この事態を看過せず、今川氏へ攻め込む動きを見せた。

北条氏綱は、駿河東部への侵攻を開始し、同地を占拠した。河東の乱が引き起こると雪斎は、拙速の対応を避け、万全の態勢と整えて、北条氏打倒に動く。

まず、1545年天文14年、関東管領・山内上杉憲政を誘い込んで、甲斐の新たな領主となった武田晴信と示し合わせて、河東へ出兵。

同地奪還に成功している。

また、尾張の織田信秀が三河へとちょっかいを出しに出張ってくると、三河諸豪族の支援に向かっている。

1548年天文17年3月、第2次小豆坂の戦いにて、雪斎は、今川軍を率いて、宿敵・織田信秀の軍を破った。

1554年天文23年3月、雪斎の根回しの活躍により、甲相駿三国同盟が成立する。

善得寺会盟が実現し、今川義元、武田晴信、北条氏康と稀代の名雄たちが集い、今後の天下の有り様を決める話し合いを成した。

一方で、雪斎は、運命とも言える子弟を持つ。

三河より今川家へ人質に出されていた竹千代、のちの徳川家康の学問教えを行ったのである。

学問の大切さ、実用学を家康n教え込み、未来の今川家の一翼を担うことを期待してのはからいであった。