おがさわら ながただ
1540?-1610? 享年71?歳。
■通称:与八郎、氏助、信興、氏儀、弾正忠
信濃国小笠原氏の庶流で、遠江国高天神城を本拠とする高天神小笠原氏の生まれ。かつて高天神城は、今川氏の有力家臣・福島氏が居城としていたが、花倉の乱にて、福島正成が甲斐にて戦死すると、福島氏は没落。
変わって高天神城の城主となった小笠原春義(春茂)が今川家の重臣として、勢力を拡大させた。
春義の孫・長忠は、今川義元、氏真父子に仕えたが、1568年永禄11年、武田軍が駿河に乱入し、今川氏は滅亡すると、長忠は、遠江を新たに支配した徳川家康に仕えた。
武田領国の駿河との国境が近い高天神城は、戦略の要衝となり、長忠は対防衛ラインの総大将を任されるに至る。
1570年元亀元年、長忠は、越前での金ヶ崎の戦いに徳川方部将として、参軍する。さらに同年、近江にて姉川の戦いの激戦に参加。奮戦し、武功を上げた。
1571年元亀2年、武田信玄が遠江へと侵攻すると、長忠は僅かな手勢で高天神城へ籠城し、見事、信玄の攻撃を阻止している。
1574年天正2年6月、武田勝頼が大軍を率いて高天神城を攻撃。2ヶ月近く籠城し、武田軍の猛攻を防いできたが、武田軍の執拗な攻撃のため、城は主郭を残すのみとなった。織田・徳川連合軍の救援もなく、ついに長忠は城兵の助命を条件に武田勝頼に降伏する。
勝頼は聞きしに勝る有能な長忠を賞賛し、将兵を寛大に扱った。さらに駿河国庵原郡・富士郡において、1万貫の領地を長忠に与え、臣下に加えている。
その後の史料に長忠の明確な記述はなくなる。ほどなくして病没したとも、徳川方の大須賀康高が守る横須賀城を攻めたとも伝わる。
1582年天正10年、武田家が滅亡すると、長忠は、北条氏を頼ったとも伝わる。
さらに1590年、北条氏が滅亡すると、長忠は徳川家康に捉えられ、斬首されたとも、伝わる。